No.104 '97/9/1

イタリア旅行記(ヴェネチア後編その1)


ヴェネチアの滞在は濃かったです。
二日の滞在は一週間分はあったでしょうか。
とくに最終日は今から思い出しても沢山の経験、そして見聞をしたのです。
というわけでこの日の出来事は二回に分けての報告となりました。

それでは始めましょうか。

ヴェネチアの歴史を語ろうとするととてもこの日記には収まらない。
ワーグナーがこの世を去ったのはこの町、そしてストラビンスキーもこよなく愛し、サンマルコ寺院を讃える曲を書き演奏した町でもあった。彼の骨もまたここに埋められた。・・・・・・まだまだ例をあげればきりがありません。

そこで我々は、今度の旅では的を絞ったんです。
そうモンテヴェルディ詣でであったのです。

「サンタ・マリア・グローリア・デイ・フラーリ教会」これがモンテヴェルディのお墓のある教会です。

教会正面のプレートです。

モンテヴェルディの大ファン、山川美弥子。彼女が書いたこの「モンテヴェルディ詣で」の文を紹介します。

「サン・マルコ寺院に行った次の日、この教会に行きました。その日は朝から曇り空で、今にも雨が降りそうな天気でした。お墓に供える花を買ってから、行きました。
モンテヴェルディのお墓は、中央祭壇の並び、左端にありました。墓の前には柵があって中には入れないようにしてありました。中央手前の地面には名前のプレートがあり、そこには百合の花粉らしいきものが付いていたので、いつも花が供えられているのかもしれません。(柵の外から届くのはこの辺りまでだったので。私達もそのプレートの上に花を供えました。)
その奥の右側にはモンテヴェルディの胸像が置かれ、左側にはグレゴリオ聖歌の楽譜がありました。正面に大きな絵が飾られ、その前に棺が置いてありました。「この中にモンテヴェルディが・・・」(実際に、モンテヴェルディの遺体はその中にあるらしい・・・)どう言ったらいいのでしょう。人間としての、その時代を生きた人としての、モンテヴェルディをすごく身近に感じたひとときでした。お墓は、立派だけれど、威圧感がない。「ああ、ヴェネツィアの人達は本当にモンテヴェルディが好きで、誇りに思っていたんだろうなあ」そう思わせるお墓でした。
モンテヴェルディは、人々に信頼され、恵まれた晩年を送ったんだろうな・・・そう思いました。」

と書きます。
私もその墓の前に立ち、感慨深かったです。
しかし、しかし・・・・・イタリア人はモンテヴェルディを知らないんです!
ガイドブックを見てもモンテヴェルディの墓のことは書いてありません。余程の音楽関係の本でしか見られないのではないでしょうか。残念ですね。
その偉大な作曲家をもっと誇りに思ってもいいと思うのですが。
(残念ながら写真はありません。ここでも撮影禁止だったからです。蛇足ですが、我々はこの禁則をよく守りました。他の国の観光客は結構これを破っていましたが)

教会を出ると雨でした。ちょっとビックリしましたが、こんなことで気落ちしている暇などありません。次への訪問へと雨の中を歩くのが我々ですね。それに驚いたのか雨はすぐに上がってしまうんです。

ヴェネチアガラス工場とショップがあるムラノ島というところへ船で渡りました。

これがそのガラス工場です。その工程を見せてくれました。

仲間の連中はお土産をここで買っていました。値段の安いものもあったのですが、でも良いものはやはり高い。私は買うのを止めました。
さて美しいものを見て満足した我々は、少し疲れていることすらを気が付かない内にまた船に乗って次への場所へと移動です。

 

ヴィヴァルディが使ったヴァイオリンです。

あのヴィヴァルディが名曲を次々と生み出していった教会を訪れました。
孤児たち(女の子ばかりでした)を訓練し、ヨーロッパ中にその名演ぶりを讃えられたとされるその場所にわれわれは言ったのです。

ガイドから説明を聞いているところです。このガイドさんには後でお世話になりました。どういったお世話かは次の報告で・・・・。

サイドには演奏していたピエタの女の子たちが見えてきそうです。
私は理解しました。ヴィヴァルディの作曲様式が何故あのようなかたちをとるに至ったかを。

次に続きます。

 

 

'97/9/1「イタリア旅行記(ヴェネチア後編その1)」終わり