No.123 '97/11/17

ひんしゅくを買ってしまうかも・・・・


書くことをためらっているんです。
しかし、ずっと考えていたんですが、やっぱり書き残して置くことにしました。
実に微妙な問題を含んでいることなのですね。
私の演奏者としての不遜、傲慢なところが出ているのでは?といつも考え込んでしまいます。
でも演奏会が近づいてくる度に同じことを思うわけですから、これは黙っているのも精神衛生上よくないですから書くことにしますね。

聴いてくださる方々(聴衆)は演奏会に何を望んで来られるのでしょう、という問題なんです。
ちょっと書き出してみましょうか。
1.親戚・縁者の聴衆は身内の近況を見に来るのでしょうね。
2.演奏される曲が好きで、その作品を聴きに来られる方もおられるでしょう。
3.演奏家に興味があって聴かれる方もおられます。
4.演奏会の雰囲気を楽しむために来られる方もおられます。
それから・・・・・

これって書ききれませんね。聴衆の数だけ「望み」「目的」がもあるということでしょうか?
で、
私が聴衆になった時のことを考えるんです。
それは当たり前のことに気がつくんですね。
つまり行く演奏会ごとに聴く姿勢も変わっているんだ、いうことなんです。
聴いてから何かを考えたり、印象を持つこともあるんですが、実は行く前から何かを期待していること、あるいは予想していることが多いんですね。
そして、その結果に一喜一憂するんです。
「思ったとおりだ」いや「予想以上だ」、いやいや「予想以下だ」ということになるんですね。
で、そのことで私はだんだん演奏会に行くのが辛くなっていっていたんです。(このことはもう少し説明がいるかもしれませんが)

演奏会に出かけて幸せの時を過ごしていた時のことを思い出します。
それは、あれこれと思わずに、演奏される曲の世界に飛び込んだ時です。
つまり、一聴衆として私が演奏する側に近づきたいと思った時に幸せな時間を過ごせたんです。
演奏を私の方に引き寄せるのではなく、私が演奏の方に近づくんですね。
これが結構良い気持ちなんです。
批判的精神がこれによって鈍くなるわけでは決してありません。
批判とは、欠点を見つけて非難するのが目的ではないですからね。
目的は「新しさを見つける」こと、「違いを楽しむ」こと、そして他の聴衆と共に空間を楽しむことですね。

東京公演を控え、演奏する者としていろいろ考えます。
どうすれば「いい演奏会」として時間を過ごしていただけるか?それを考えているんです。
演奏家として、来ていただいた方々のすべての「目的」「希望」にそった演奏ができればいいのですが、それは不可能に近いと知りました。
理想的にはそうなのですが、仮にそのような演奏ができれば、それはちょっと不気味な演奏かもしれない、と思う気持ちも強いんです。
作曲家や作品に近づく演奏家、その演奏に近づく聴衆、そのような関係で空間に鳴り響く音楽、それが人と人とを、人と歴史を堅く結びつけるような幸せな一時になれば、と願っているのだと思います。

この一文がちょっとお節介なこと、余計なことだと、皆さんに「ひんしゅく」を買うことにならなければいいのですが・・・・・

今日はこれから東京に向かいます。
演奏会場の近くにホテルを取りました。
明日の演奏についていろいろ考え、今夜は悩みの一夜となりそうです。

'97/11/17「ひんしゅくを買ってしまうかも・・・」終わり