キリシタン史 禁教・潜伏時代


1614年以来、幕府のキリシタン検索は厳しさを増す一方であった。各地で様々なキリシタン検索が行われたが、1638年の島原の乱をきっかけとし、全国的に宗門改め制度が確立した。その確立に力を注いだのが、1640年に初代宗門改方に就任した大目付井上筑後守政重であった。
その蟻の這い出る隙も無いと言われたキリシタン検索制度を上げていく。

●懸賞訴人の高札
要するにキリシタンを見つけた者に懸賞金を与える制度である。
1618年に始まり、最初は伴天連のみ銀30枚であったが、次第に金額も増え、範囲も広がっていった。1633年には伴天連・銀100枚、修道士まで範囲が広がり、1638年には、伴天連・銀200枚、修道士100枚、宗門の者30〜50枚となり、その後も増え続けた。
1678年にはいったん懸賞金が下がるが、1682年再び増加。伴天連・銀500枚、修道士300枚、宗門者100枚、そして立ち返り者300枚となっている。いったん転んだが立ち返ってキリシタンとなった者の方が罪は重い、ということである。

●五人組連座制
元々、治安維持と年貢徴収のための連帯責任制度だが、キリシタン検索・摘発にも利用された。相互監視と密告のため利用され、組外から訴えられキリシタンが見つかれば、その五人組だけでなく周辺の家々とその一族も罰せられた。
しかし、この制度は長崎の浦上村のように全村民キリシタンだった場合、全く効果が無く、かえって結束を固めさせてしまうという面も持っていた。

●寺請制度
住民はどこかの仏寺の檀徒にならなければならず、それが毎年調べられ、宗門改帳とか、宗旨人別帳とか言われるものに記載されるようになった。これは後述の絵踏の時の台帳ともなり、また全ての住民の宗門を記録するので、人口調査、戸籍として使われた。実際キリシタンがほとんど見られなくなっても、戸籍として必要であるから、この制度は続けられた。
一応転びキリシタンと元々仏教徒の者とで、記載の仕方が違うところはないとされるが、元々仏教徒の者の帳には「元来」と記載されており、結局区別されていた。
また旅行するときの往来手形にも仏寺の檀徒であることを証明せねばならなかった。

●絵踏
1631年に雲仙地獄(例の拷問の時)で行われたのが最初と言われる、有名な制度。キリストやマリアの像を踏ませて、キリシタンで無いことを証明させるのである。
最初は転びキリシタンに転びの証明として、または転ばせるために行われたが、次第にキリシタン摘発の手段となっていった。
最初はキリシタンの持っていた聖画やメダイを踏ませていたが、制度化されるに連れて絵踏用の踏絵が作られるようになった。
絵踏の効果は、踏んだことでもう(キリシタンに)立ち返ることが出来ない、と言う失望感を与え立ち返りを防ぐことにあった。その時の足の痛みはいかばかりであっただろうか。
長崎では1657年から1858年までの200年間続けられた。
長崎の出島では、中国人や朝鮮人、オランダ人に対しても絵踏が行われ、1644年には中国人キリシタン五名が摘発されている。

●類族帳
転んだキリシタンを監視する制度。転びキリシタン本人、転び前に出生した類族、転び後に出生した類族に分け、死骸の吟味などを行い類族帳に記載し、年2回提出する。生死・結婚・離婚・転居・改名などを記さねばならなかった。
男子は六代、女子は三代先までの一族が監視されることとなった。六代先なんて耳孫であって、子々孫々に至るまで監視される感覚だったであろう。
これも宗門改帳と同じようにキリシタンが見られなくなっても、全国民掌握のために制度は続いたのである。
1687年に始まったこの制度をもって、幕府の宗門改制度は完成する。

●転び証文
絵踏や拷問で転んだキリシタンたちは、キリシタンに立ち返らないことを誓約した文書を書かねばならなかった。これを転び証文と言い、南蛮誓詞と日本誓詞の二種類があった。
南蛮誓詞には、デウス、サンタ・マリア、アンジョ(天使)、ベアト(福者、聖人)にかけて再びキリスト教に立ち返らない、と自らが棄てた神に誓約する事を書き、日本誓詞には、梵天、帝釈天など日本六十余州の大小神祇にキリスト教を棄てたことを誓わねばならない。
信じた神にその神を棄て去ったことを誓い、信じたくない神に今まで信じた神を棄てたことを誓う‥‥何とも重苦しい誓詞である。いかに幕府がキリシタンを憎み、精神的弾圧をかけ、さらに立ち返らせないようにしたかがわかる。

これらの制度は、各地でキリシタンが発見されるたびに強化されていったのである。
しかしこの凄まじいキリシタン検索制度の中でも、転んだふりをして信仰を持続させた、キリシタン達がいた。潜伏キリシタンと呼ばれる人達である。

1643年のマンショ小西神父の殉教を最後に、日本で司牧する司祭は一人もいなくなってしまった。指導者のいない状態で、地下に潜伏したキリシタン達はいかに信仰を維持したのであろうか?それには、キリスト教布教盛んなりし頃の有形・無形の財産が深く関わってくるのである。

キリスト教日本布教初期から全盛期まで、信者と教会は増え続けるが、それに対応できるだけの司祭はいなかった。外国人司祭はそんなにたくさんやって来られないし、コレジヨやセミナリオで日本人司祭の養成も行われているが、増え続ける教会・信徒の数に対応するほどの司祭は生まれなかったのである。司祭は教会を巡回し、ミサを執り行い、秘跡を授けていた。
そこで布教初期から、日本人平信徒にある程度のことが出来るように権限を与えて、その地の教会(=教界)の存続にあたらせた。看房や同宿といわれる人達がそれである。
看房は仏教用語から来ていて、寺の管理者みたいなものである。キリスト教会では、各教会の管理・保全にあたる傍ら、信者の祈りの指導や危急の時には洗礼を授け、病人や臨終の人の世話、埋葬の手伝いなどにあたっていた。
同宿は、宣教師と共に寝起きするところからそう呼ばれ、宣教師の補助をし、未信徒の教化、一般信者への教えを行った。彼らは俗世間とは離れているが(剃髪などもしている)、修道士や司祭と言った身分ではなかった。むしろそれを目指す者であっただろう。

各地のキリシタン教界にはその大小に関わらず、日本人のリーダー的存在が置かれ、日本人だけでも教界が存続できるよう体制を整えていった。
こういった体制は迫害が始まって、司祭の巡回布教がやりにくくなっても機能し、教界を存続させていた。

また、同じく布教初期から各地にコンフラリアと呼ばれる組織が形成されていった。信心会とも呼ばれるそれらは、ある一定の活動や信心を行う信者集団である。
その中でも<ミゼリコルディアの組>と呼ばれる集団は、各地で組織された。<慈悲の組>とも呼ばれるこの集団は、『どちりな・きりしたん』などに記されている「慈悲の所作」の精神に基づき福祉活動を行う集団である。

元々この組は、ポルトガルやローマにもあったもので、隣人愛の実践を行うものであり、ヨーロッパでは匿名の活動が基本であった。覆面をかぶって誰かわからぬようにして活動を行うのである。今の銀行強盗や特殊部隊のような格好をして、福祉活動を行うのだから、現在の我々の目から見れば、変な感じであろう。しかし王侯貴族から平民まで区別なく活動が行われるための措置でもあった。今でもヨーロッパでは活動を続けている組もあるそうである(格好は違うだろうが)。

日本でも各地での<ミゼリコルディアの組>の活動の跡が書簡などに残されている。
ローマ教会に正式に認められた組織は、長崎と畿内に一つずつくらいだが、それ以外にも各地で活動が行われている。
病院や孤児院の建設、経営。「慈悲のぶんぐこ」と呼ばれる有形・無形の寄付の収集。貧者への施し、埋葬の手伝いなどを行っていた。
この組織のリーダーは「慈悲役」と呼ばれていた。これは生月や平戸のかくれキリシタンが「爺役」とよぶ役職の語源ではないかと言われている。

迫害が厳しくなると、この組の慈悲の精神は、同じキリスト教信者のみに向けられるようになり、信仰を維持するための組織に段々と変貌していったのである。

この他にも「サンタ・マリアの御組」「イエズスの御名の信心会」「ゼススの会」「ロザリヨの会」など様々な信心会があった。
これらの組織は最初こそは、特定の信心のために組織され、高度な修行を行うためのものであったが、迫害が厳しくなるに連れ、一般信者を含めた教化組織へと変貌していき、信仰を維持するための組織へとなっていった。

日本人平信徒が洗礼や埋葬などの式が行え、コンフラリアと呼ばれた組織が、潜伏のための地下組織と変貌していったこと、そしてすでに述べたように活版印刷によるキリシタン書の増加が、長きに渡る潜伏活動の基盤となったのである。

江戸幕府の厳しい禁教令によって、キリシタン達は地下組織を作って信仰を維持して行くしかなかった。その地下組織の元となったものは前回述べたようなコンフラリアなどであった。
これらの潜伏キリシタンの組織は、長崎の外海、平戸、生月、浦上、熊本の天草、他にも尾張、加賀、高槻、などかつて布教が盛んであった所に多く存在した。
これらの組織は、五人組連座制のため、全村民・全島民がキリシタンでなければならなかった。そうでなければ組織は維持するのは、ほとんど不可能に近かった。

彼らは寺請制度のため、どこかの仏寺の檀徒にならなくてはいけなかったので、表面上は仏教徒を装い、密かに信仰を維持しなければならなかった。
キリシタンの集会の時は、宴会を装い、いつ役人に踏み込まれても良いようにしていた(この名残は現在のかくれキリシタンの間でも見られる。行事と宴会が一体化している事が多い)。
オラショを唱えるときは、見張りを立てたり、口の中だけで黙唱したりしていた。
葬式は仏式で出さなければならなかったので、僧侶の読経中や読経後に別室で「経消しのオラショ」を唱え、僧侶が帰った後、棺桶にキリシタンの道具を入れたりした。

彼らも絵踏は当然しなければならなかった。そう、潜伏キリシタン達は皆、キリストやマリアの御影を踏んでいるのである。浦上では「足がさわらんごとく、軽く踏めよ」と子供達に諭していたというし、五島では足の汚れが聖画につかぬよう、念入りに足を洗ってから絵踏に出かけたという。
しかし踏んだことに変わりはなく、彼らは絵踏の後、家に帰ってから「こんちりさん(告解)のオラショ」や「あやまりのオラショ」を唱えたり、オテンペシャと呼ばれる苦行用の鞭で自らを打ち、その罪の許しを祈っていた。
もちろん本来のキリスト教では、絵踏をする事は当然許されず、殉教も辞さないことが正しいとされていたから、これらの行為は殉教も出来ず、指導者もいない状態での心理的妥協案と言わざるを得ない。何とも切ない話である。

潜伏キリシタン達は、洗礼の仕方、オラショを唱えることを伝承し、キリシタン遺物や聖画像を大切に伝え、殉教地や教会跡に密かに詣った。キリシタンの祝日にはオラショを唱え、信仰を伝えていった。
しかし初代の潜伏キリシタン達はともかく、司祭や修道士に会ったこともない者たちの代に変わり、相変わらず潜伏したままでは、その信仰の伝承は難しく、次第に隠れ蓑の仏教や神道、民間信仰がないまぜになった一種特殊な宗教へと変容していくのである。

それでも彼らは、「いつか海の向こうからパードレがやってくる」事を信じて祈り続けたのであった。その祈りが次第に形だけとなっていっているのにも気づかずに‥‥。

潜伏したキリシタン達ではあったが、幕府のキリシタン検索は厳しく、各地で潜伏キリシタンが発見されたり、発見されそうになったりしていた。これを「崩れ」という。

最初の崩れは、潜入宣教師もなくなり、キリシタンの殉教事件もほぼ無くなった1657年に起こった。場所は、九州・大村藩。かつてキリシタン大名大村純忠によりキリスト教信仰が栄えた土地で、その子純頼の背教で迫害は起こったものの、なお多くのキリシタン達が潜伏生活を続けていた。

大村郡崩れと呼ばれるこの事件の発端は密告であった。矢次村の兵作がその小舅理左衛門に、キリシタンの話をしたところ、理左衛門がこれを町乙名に密告。兵作は捕らえられる。一度発覚すれば、その一族、その村も取り調べを受けるので、次々とキリシタンが露見していった。この間親戚間や家族間でも盛んに密告が行われ、予断を許さない状況であった。
結局、総計608人の人間が捕らえられ、その内411人が転ばず斬罪となった。捕らえられた牢で病死した者78人、永牢の者20人、無関係又は転んで赦免された者99人であった。永牢の者の内には11歳で牢に入れられ、75歳で死亡と、64年間牢で過ごすという、文字通りの永牢となった者もいた。

この結果大村領の宗門改めが厳しくなり、キリシタンは激減。東彼杵地方ではキリシタンは消滅。西彼杵半島でも、内海、時津などではキリシタンがいなくなり、外海地方や長崎浦上村あたりに残るのみとなった。

1660〜62年にかけて豊後地方でも崩れが起こる。220人が捕らえられ、57人が死罪、牢死者59人、江戸送り3人、永牢者36人、赦免者65人であった。

続いて1660年代には、尾張・美濃崩れがおこる。キリシタンを保護していた織田信長の領域であったこの地方は布教も盛んで、九州に次いで多くのキリシタンがいた。

まず尾張で、江戸の旗本の密告によってキリシタンが発覚、200余人が捕らえられ斬罪に処せられる。首切り落とされた胴体は、試し切りのために藩士に配られた。老中には生きたままのキリシタンが試し物として差し出されたという。
同じ頃、美濃の笠松でもキリシタン数十人が磔刑となった。木曽川堤の殉教地は今でも大臼塚と呼ばれている。

取り締まりは厳しくなる一方で牢舎はキリシタンであふれかえった。
尾張藩山澄淡路守は老中に呼び出されキリシタン宗門について詰問を受ける。これを期に尾張藩はキリシタン殲滅を決意。次々とキリシタンを捕らえ、斬首、磔刑に処していく。結局、約3000人の殉教者を出すこととなった。彼らもまた、試し物として死体が足軽以上の藩士に配られたという。
残されたキリシタンの類族達は、何代も厳しい監視の中、村八分の差別社会で生きることを余儀なくされた。

1791年には、長崎浦上村で崩れが起こる。この村では計四回の崩れが起こっている。
これに関しては、こちらをご覧下さい。浦上の四つの崩れについて書いてあります。

1805年には天草で崩れが起こる。
約5000人が捕らえられたこととなるが、公儀筋はこれを邪宗徒ではなく、心得違いの者として隠密に処理した。
この頃には切支丹禁令の高札が掲げられているとは言え、捕らえる方も、切支丹とは何ぞや?といった感じであり、制度も風化しつつあったので、このような結果となったのであろう。

さて、このような迫害の嵐が吹き荒れる中、1643年のルビノ第二隊以来、宣教師の潜入は無かった。しかし彼らは日本の信徒達を見捨てたのかと言うと、そうではなく、何度も日本渡航が試みられている。ローマ教会は日本に司教、大司教を赴任させようと、何度も派遣するがその計画はいずれも頓挫した。日本の外国船排除の姿勢がいかに強硬だったかわかる。
そんな中、1708年にただ一人日本にたどり着いた宣教師がいた。

ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ。彼は少年の頃日本に関心を持ち、日本布教を夢見ていた。東洋布教にやってきた頃には、とても日本は入国出来る状態ではなかったが、一隻のポルトガル船が彼の熱意に負け、日本近海に接近したのである。
こうして夢見た日本にやって来た彼だったが、直ちに捕らえられ長崎に送られる。

彼を取り調べることになったのは、時の宰相・新井白石であった。
シドッティは江戸の小日向の切支丹屋敷に送られ、そこで審問を受ける。その審問の内容が『西洋紀聞』に残されている(これも岩波文庫から出ています)。

結局シドッティは、わずか8年前までルビノ第二隊の最後の生き残りが住んでいた小日向の切支丹屋敷で一生を過ごすこととなった。
しかしルビノ隊と違ったことは、シドッティは拷問もされず、棄教も迫られず、それどころか布教さえしなければキリスト教信仰も良しとされ、自由に祈ることが出来たのである。
これには、背後にポルトガルなどの国家の影が感じられないことなどがあるが、何より新井白石の英断であった。

しかしながらシドッティは一人の日本人にも布教しないことは耐えられなかった。切支丹屋敷で、自分の身の回りの世話をしてくれる長助・はる夫婦に教えを説いてしまったのである。この夫婦は、ルビノ第二隊の世話をしていた時に、黒川寿庵という明国出身の修道士に教化されていた。そしてシドッティに教えを受け、正式に受洗したのである。

夫婦は禁制の宗門を信じたことを自首し、牢に入れられる。長助は獄中で病死、殉教者となった(はるについては不明)。
シドッティも禁じられていた伝道を行ったことで地下牢に閉じこめられ、1714年10月21日殉教する(死因は食を減らしての餓死と推定されている)。

こうして最後の宣教師は死亡。次に宣教師がやって来るのは、日本の開国を待たねばならなかった。
潜伏キリシタン達は、日本の夜明けを待って、ひたすら潜伏し祈り続けたのである。


江戸初期の大迫害 開国、そして‥‥