1997/5/22
<現代曲シリーズの練習風景・NO.1>

(今回の担当:BASS 浅野毅彦)

現代曲シリーズの練習日誌、NO.1です。
現代音楽の練習に入って2週目の5月14日(水)は、当間先生の指揮がついて(先週は音取りウィークでした)メイン・プロであるペルトの「ベルリン・ミサ」を中心に練習しました(あと例会で演奏するシャインの曲やドイツ民謡も練習しましたが、ここでは割愛します)。
今日の練習のポイントは、ペルトは意味のかたまりに合わせて(つまり文節単位で) ダブル・バーを楽譜に引いているのだけど、そのダブル・バーの間をいかにワン・フレーズで歌うか、と言う点(特に早い曲想のグロリア)と、スラーの扱い方(先生は「こぶしの引き延ばしたもの」と仰っていました)です。
 拍子の変更が多いため、歌い慣れていない状態ではどうしても鳩が豆をつつくよう な、一音一音ブツ切れの歌い方になってしまっていたのだけど、ダブル・バーの間が1フレーズ、というのを意識すると、それだけで音楽の流れが自然と生じてきました。スラーの扱い方もその流れの中で自然と決まるようです(これは個人的見解)。音楽になり始めたなぁ、という印象です。
練習の中で当間先生が「見た目は地味で派手さのない音楽だけど、すごく深い・・ ・」と仰っていました。僕は彼の音楽の底流に、あるいはその中核に「沈黙」を感じます。それも、単に音が無い、と言う消極的な意味のそれではなく、力と存在感を感じさせる沈黙です。
ノーノやケージといった前衛の人達も最後には沈黙に向かっていったし、20世紀後半 の傾向として異端ではないのですが、ペルトの場合、カウンター・カルチャー的な背景を持つというより、今日忘れられている西洋の精神的伝統(これは東洋でも同じ事ですが)を継承していると思うのです。沈黙の中で祈りを通じて神と合一しようとした東方教会の「静寂主義者」達、ふと彼らのことを思い浮かべてしまいます(ペルトの場合、あの作風になったきっかけは東方教会の音楽を聴いたことらしいので、尚の事そう思うのですが)。
日本では余り知られていない東方教会、彼らの精神世界の事も、演奏する立場としては(僅かなりとも)知っているべきでしょうね。 といってもガチガチの西洋オンリーではなく、「どちらかというと東洋人に分かり易い、感じやすい響きじゃないかなぁ、ヨーロッパ的じゃないでしょ、オリエンタルな感じのしている・・・」と当間先生が仰るように、普遍的な要素を持つ音楽です。 それは機能和声でない体系で作曲されているためでもあるのですが、「あの静けさ」が洋の東西を問わず共感を生むのだと思います。どこか禅の世界にも似た感触・・・・。
こんなとんでもなくすごい作品を後1か月足らずで演奏するなんて・・・・(他にブリテンの曲もあるぞ〜っ)、危機の認識を持つと同時に、そんな作品に近づけることに幸せを憶えた練習でした。


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