(今回の担当:TEN.鳥海治房)
今回の京都公演は、昨年の4月半ばにに入団した僕にとって、「シュッツ合唱団の一
員になって、ようやく、一年経ちました」というステージでした(いろいろなことが
あった一年間でした.「一年間」とは思えないくらい、いろいろな曲も歌いました)
。
そんな若輩者の僕ですから、当然、今回の連続演奏が「ヨハネ」初体験です。
神戸公演では、第一部だけで、かなり疲れてしまいました。第二部は、不足した体力
を気力でカバーする状態。そんな状態でたどり着いた終曲のコラールにて。ある歌詞
を歌った瞬間、その単語が、体の中全体に広がったのです(今まで歌を歌っていて、
こんな現象は初めてでした)。
その言葉は、mich という単語(「私」を意味する言葉の4格)でした。
個人の信仰。個人の祈り。自分とキリスト教の世界をつなげるものとしてのコラール
、
人間の思いがいっぱいに詰まったコラール・・・。
キリスト教徒でもない僕に、こんな思いをさせてくれるのですから、「ヨハネ受難曲
」は凄いです、バッハは偉大です。「終曲にコラールが置かれていることが、この曲
の特徴の一つ」ということは、それまでも頭では理解しているつもりではありました
が、この時になるまで、コラールの意味がわかっていなかったのですね(お恥ずかし
い・・・)。
そんなわけで、目からウロコが落ちた思いの神戸公演でした。
で、今回の京都公演です。神戸での演奏会で終曲のコラールは僕にとって特別大切な
ものとなってしまったので、「39曲目までは終曲につながるように歌おう、終曲は39
曲目まで全てを心に描きながら歌おう」という思いで臨みました。
しかし、そう思って歌うと、終曲のコラール一曲が、非常に重いものとなります。
そんな、思いのこもったコラールを、当日のゲネ(ゲネの凄さについては、以前に長井先生が書いておられたので、そちらを参照して下さい)で2回歌いました。疲れまし
た・・・。しかし、なぜか本番では、そのような疲れは感じませんでした(当然、体
力的には、疲れましたが)。全体を通すことによる自然さ、のためでしょうか。
今回の京都での演奏会は、僕にとって、入団一周年記念ステージ、というだけでなく
、
もう一つ別の意味がありました。
京都アルティホールは、僕が、初めてシュッツ合唱団の演奏を聞いた場所なのです。
もう数年以上前のことです。曲は、シュッツ「ヨハネ受難曲」、演奏は、シュッツ合
唱団全体ではなく、室内合唱団でした。当時は、ヨハネのテキストなど全くわからず
、音楽もよく分からなかったのですが、その声の響きに純粋に感動したのでした。
この世の中に、こんなにきれいなテノールの響きがあったとは!
濁りのない透明な音色、それでいて、ホール全体に響きわたる音色!
理想の響き、いつかは、こんな声で、こんな合唱団で歌えるようになりたい・・・。
当時のその想いが、ステージの上でよみがえります。かつて、雲の上の存在、あこが
れはあるけれども到底届かない存在と思っていた、シュッツ室内合唱団の一員として
、ステージに立って歌う・・・。
言葉に表現できない,独特の感慨がありました。
今回の我々の演奏を聴いて、様々なお客様が、様々な感想を持って下さったことと思
います。その中で、かつての僕のように衝撃を受けた若者もいたのではないか、と期
待してしまいます。
感動をもらう立場から、与えるべき立場になって、一年。
次回の大舞台は、「現代音楽」です。大きな演奏会ではありませんが、マンスリーコンサートもあります(今月は、ヴォーカルアンサンブル・ベアーズとしての出番もあります。これについては、いずれ別の機会に書きましょう)。
団員の皆さま、お客様の皆さま、これからもよろしくお願いします。
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