生誕250年を迎える今年ということで、私もモーツァルトの演奏会を企画しました。そのプログラムを考えるには少し時間がかかりましたが、結果は交響曲二曲と協奏曲が二曲。

モーツァルトだけでプログラムを組むということには勇気がいります。それもオーケストラである「SCO」(シンフォニア・コレギウム・osaka)単独の演奏会でということが当初の私の計画でもありましたからなおさらです。

この演奏会のためにモーツァルトに関する資料を読み返しました。これまでにもモーツァルトの多くの曲を演奏してきましたが、今一度初心にかえって彼の「人間」と「作品」を見つめ直すいい機会だという気持ちが強かったものですからそれは楽しい作業でした。

モーツァルト像が一新しました。そしてくっきりしたものになりました。
彼の音楽に対するアプローチ、それがこれまで以上に明確に私の中でイメージされるという結果となりました。彼の中に渦巻き続けた音楽の源泉、それが何であったか確信が持てたのですね。

それは、幼いころから最高の賞賛を受けて育った悲劇とも受け取れるその環境。加えて、父親と共に旅した各国での音楽体験であり、また、そこから生まれた音楽家として力を惜しまず最高の作品を提供しつづけなくてはならないという職人気質、それらのことだ、と私は理解したのでした。

聴きたいと思う人がいるから演奏家が生まれます。

演奏家(作曲家)はその聴衆に向かって演奏(作品)を提供する。

この関係は最良となるものもあれば、失望や落胆の関係にも成り得ます。
モーツァルトの時代も、そしてこの現代にも。

モーツァルトは彼の旺盛なサービス精神と、より刺激的で面白い表現を取り入れながら彼自身の心情、感情をダイレクトに音として表現できた希有な作曲家でした。彼の作品にはハッタリといったものがなく、余計な飾り、無駄な音もなく、彼自身の「今」を表現したものでした。

それならば、現代に演奏する私は彼の「今」を楽譜から読み取ってありのまま演奏すれば良い、それが今回演奏に向けて私が得た結論でした。
演奏会が終わった夜、一通のファックスを事務所から受けとりました。
当日お出でいただいていた評論家の方からです。
普通こういったことはありません。評論家が当日演奏した者にその日に書き送る、それは無いことです。少しその事態に驚きながらも読ませていただきました。その内容はこれまで読んできた「批評」の類いではなく、私の演奏意図に触れる的確な指摘でした。

演奏家という者は自分の欠点も長所も解っているものです。
演奏した内容において、何が不足で何ができたか、誠実な音楽家であればあるほど解っていると思います。
「批評」にあって、欠点の指摘はあっても長所の指摘はまれです。まして、演奏意図やその成果を前向きに指摘していただける内容はそうあるものではありません。
受けとったファックス内容はそのまれなるものでした。

私にとって何よりも大事なことは「聴衆」とつながっている、という実感です。一般の聴衆は勿論のこと、評論家ともです。
モーツァルトを通して「人」が、「歴史」がつながる。その思いで今回の演奏会を企画しました。
今、その喜びを少し味わっています。

*当日のプログラムに掲載した私の「「演奏にあたって」」をここに添付します。お読みいただければうれしいです。