No.588 '05/6/10

「花」「鳥」の名前は苦手です


実はその上に「魚」も苦手です。
名前を覚えるのはどうしてこうも弱いのでしょう。
人の名前もなかなか覚えることができません。
覚えるという努力が足りないからなんでしょうか。

「キキョウ」が大好きです。
野に咲いている「キキョウ」、それも紫に白が混じったあの独特の色を見ていると「泣きたくなる」ほどの感動です。
きっとそれは亡くなった母との想い出とも関連しているのでしょうが(幼い頃母と一緒に裏山でよく採りました)、しかしそれだけではなく、あの色に私の何かが反応するのでしょう。(「キキョウ」には他に白い色の花ものあります)
「キキョウ」が好き、がその他の花にも目を向けることになりました。
名前はなかなか覚えられませんが、いまでは色や形や、それも茎や葉っぱにまで見つめてしまう始末です。

空を飛ぶ「鳥」に魅了されます。
飛んでいるときのあの美しさ。
羽を伸ばした姿、羽を折りたたみ地上に立つ姿、飛び立とうとする、あるいは地上に降り立とうとする姿の何と神々しいことか。
色鮮やかな小鳥たちもそうですが、北海道で見たタンチョウヅルは本当に美しかった。
空を悠々と飛ぶ姿に、私は人としての「夢」を重ね合わせます。
鳥から見た地上ってどんな風なのでしょう。
餌を求め、憩いの場を求め、そして降り立ち、愛の巣となる地上。
「鳥」になりたいと思う私です。

「花」や「鳥」を観る。それは私の心の鏡かもしれないと最近とみに思うようになりました。
それも奥底を写す鏡です。
<鮮やかな赤>に私の情熱が騒ぎます。
淡く、それでいて<透き通るような空色>に私の心の深閑部が共振します。
全てのモノを融かし、引き込まんとするほどの<深い藍色>に私のひ弱さが映し出されます。
色や姿に魅了されながら「我」との対話です。

デジタルカメラを使ってそれらを写し取ろうとしたことがあります。
しかし、「撮る」ということの意味が少し違っていました。
記録として、存在そのものを写し取ろうとしていたと思います。
写真よりも、「観ている時」を重んじる。そういう気持が強かった私です。

今度、新しいデジタルカメラを購入しました。
高級なものではありませんが、今までよりは美しく、また思い通りに取れる機能付きです。(私の実力に相応しています)
これを使って<私の心>を写し始めてみようと思いました。
小さい頃からカメラは私の身近にありました。
写真を撮るということに少し身近すぎて拒否的な反応もあったかもしれません。
「花」や「鳥」を撮りたいと思うようになった今、「私自身」を写し取ろうとする意味も込めて「激写」開始です。



No.588 '05/6/10「「花」「鳥」の名前は苦手です」終わり