No.257 '00/1/18
先日、団員の高沢くん(テナーです)から一冊の本を紹介してもらいました。
「モリー先生との火曜日」ミッチ・アルボム著 別宮貞徳=訳 NHK出版
16年ぶりに行われた恩師との授業。それは難病(筋萎縮性側索硬化症)ALSに侵された教授の、死に向かっての最後の講義でした。
「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べるんだよ」と。
その他全編にわたって、感動的で、示唆的な言葉に溢れています。
我が国で「愛」を語るのは難しい。
「愛」は実践なんですね。
「モリー先生との火曜日」を読んで良かったです。 No.257 '00/1/18「〔愛〕を語ることの難しさ」終わり
「愛」を語るのに<照れ>を覚える世代ですね、私は。
「愛」という言葉、一般的に言って我が国の文化の中では日常的ではないかもしれませんね。
私はキリスト教の中に長くいましたから、「愛」という言葉には慣れ親しんでいたほうかもしれません。
しかしその私でも、その言葉はどこか馴染めない部分が残っているんですね。
一般的な会話の中でも使われていないと思うのですけれど、どうでしょう。
以前、話題になった本だそうですし、テレビでも放映されていたそうです。
どうしたことが、私はそのことを知らなかったのですが、それはとても私が忙しい時期と重なっていた出来事だったに違いありません。
遅ればせながらその本を読みました。
です。
モリー先生は言います。
「人生に意味を与える道は、
人を愛すること、
自分の周囲の社会のために尽くすこと、
自分に目的と意味を与えてくれるものを創り出すこと。」
モリー先生の宗派を超えて語るその言葉は、著者(かつての教え子でした)の人生と併せて説得あるものになっています。
私も読みながら涙しました。(電車の中で読むんですが、涙には困ります)
読み終え、感動冷めやらぬ時を過ごしながら、<しかし>と私は思うんです。
我が国で「愛」を説くのは更に難しい。
誤解を受ける覚悟で言うのですが、
「愛」を語らないほうがいい、「愛」を説かないほうがいい、と私は思っています。
短い体験での私の人生ですが、「愛」を語り、「愛」を説く人に私はこれまで「愛」を感じることは少なかったです。
感じること、与えること、「愛」はその実践によって「愛」となる、と私はそう思っています。
私も実践できればなぁと思います。