第111回('07/04/08)

バッハ「ヨハネ受難曲」(オペラ化)を総括します

一年の間隔はありましたが、演奏者として少し魅力的な仕事であるバッハ「ヨハネ受難曲」(オペラ化)を大阪と東京において公演しました。
そのことのまとめ、総括を自ら行って記録しておこうと思います。

と、切り出しましたが、正直なところ今回の一文は書かないつもりでいました。

大阪・東京とも、想像以上に大きな反響と好評をいただいたことで公演の意義があったと判断していたからです。
ほぼ30年に及ぶ私のこだわり(後述)に終止符を打つことができたとの思いで、私の活動はすでに次のステップへと進みつつありました。
ところが少しだけ書いておかなくてはならないことができてしまったようなのですね。
「東京公演」に際して心配していたことが若干あって、それが予想通り起こってしまったのでした。

「評」というものは一方通行でやってきます。
反論をすることがほぼできません。(今回は以後、少し事情が異なるかもしれませんが)
とても不平等な結果と成ってしまうことが多々あります。
「評」そのものの「質」が高く、内容も心に響くものであれば喜んで耳に(目に)痛いことも演奏者として受け入れましょう。
しかし、そうでないものに対してはしっかりこちらの主張も記しておかなくてはなりません。
演奏者がライブで感じたこと、その後の聴きに来てくださった方々の意見や感想、それらと「評」とのギャップを明らかにし、その記録を残しておかなくてはならないと考えるからです。
「評」を無視することは読者に対して、そしてその記事を書いた人に対しても失礼になる、無責任になるかもしれないと強く思うからです。

新聞や雑誌などで「評」があまり掲載されなくなって久しいです。どうしてこんな風になってしまったのか?
クラシック離れが叫ばれる中、「評」もまた読者離れが起こっています。(本が、活字が読まれなくなったという社会現象を見逃すわけにはいきませんが)
それらの原因は演奏者側にもあるかもしれません。しかし書き手側の文章力(何を伝えたいか?)が大きく関与しているのではないかと私は思っています。
音楽界全体を思うとき、私の心は疼きます。

いわゆる「感想文」のような「評」が多いのではないかと感じています。
「趣味嗜好」の域を超えない「評」との印象も強いです。
そんな部類ではないかと思う「評」が私たちの演奏に対して、東京のある新聞に掲載されました。

どういった内容だったのか。それは少し後に書きます。
先ずは私の総括から始めなければなりません。

2006年4月29日、大阪いずみホールで一回目の「ヨハネ受難曲」(オペラ化)を公演。
終曲が終わるや、大拍手。カーテンコール後はスタンディングオベーションでの拍手、そして興奮気味の歓声に包まれて確かな手応えのうちに幕を閉じました。
カーテンコールでは笑いや、リズムによる拍手もあって出演者と聴衆とが一体になった熱いエンディングでした。
アンケートやその後のご意見も、「良くストーリーが判った」「イエスが何故殺されたのか、その悲惨さが胸を打ちました」「合唱団のアンサンブルの見事さ」というものが多く、またある音楽評論家の方からは幾人かのソリストの力量に関しての苦言はありましたが、「やっと当間さんの意図、表現が解りました」との話しを伺うこともできました。

2007年3月11日、東京公演も好評の内に幕を閉じられたのではないかと思っています。
お客さんの反応の違いはあります。大阪はノリが良く、東京はしっかりと聴いていただく冷静さがあるというところでしょうか。その違いはあるものの、楽しんでいただけた、意図するところは解っていただけたと感じましたし、多くの感想や意見もそれらを示すものでした。

(これらの両日の模様は当日収録されたDVDによって観ることができます)

問題の「新聞評」のことに触れる前にもう一つのポイントを記しておきます。
その経緯、そして何故私がオペラ化の試みに至ったか?です。(このことを書かなくてはならないということにため息が出る私です。もしこの記事を見なかったならば書く必要がなかったと思います。演奏だけで理解していただいた方々がほとんどだったのですから)

「何故オペラ化を試みたのか」このことはプログラムにも記述していますが、少し補っておきます。
2000年の「ヨハネ受難曲」の演奏を持って一応バッハの「受難曲」の終結を感じた私でした。
(それまでに8回の演奏を行っています)
バッハの音楽語法、解釈等が定まり、演奏も一応の成果を得たと判断したことによります。
しかし、「評」などでは第一回目「ヨハネ受難曲」の演奏から、ずっと私の演奏は劇的すぎる、表現が強すぎるとの声も一部にはありました。(しかし、「宗教曲」に限らず、私が目指したその音楽表現法に対して多くの賛同と共感を得て来たことが活動の骨幹です〔特にドイツにおける評価の高さには私自身驚いたほどです〕。音程の正確さ、声や音の立ち上がりの明澄さ、それらによって生まれるポリフォニー音楽の妙味、その立体的な構築性、それらの歩みを称して「奇跡の軌跡」だと評してくださった評論家もいました)
「ヨハネ受難曲」の「劇的要素」はそのテキストに因っていたのですが、様式化(「バロック様式」が持つその劇的要素の故に)ということもまた意識していたことは確かです。
リアリティのある演奏をと目指していた私にとって、バッハの「ヨハネ受難曲」には「劇的な演奏」が必要であると感じたのは当然のことだったわけです。
話しを戻します。
そういった歩みの中、さらなる向上へと向かうために私は「ヨハネ受難曲」に一旦距離を置くことにしました。

その後、何度かのドイツ演奏旅行を機に「西」の文化、と「東」の文化、その両輪による新しい「日本文化」への貢献となるよう関与したい、との思いが起こり、「現代音楽シリーズ」「邦人曲シリーズ」の流れへと繋がっていきます。 そのシリーズは多くの方々から支持を得て今日に至っているわけですが、音楽家としてより向上を目指すにはジャンルに偏ることなく新しい表現を試み続けなければなりません。
その一つがバッハへの回帰、「ヨハネ受難曲」の再演へとまた結びつきます。

バッハの音楽に焦点を合わせることは大きな喜びです。バッハは器楽にとっても、声楽にとってもまだまだ大きな魅力を放っています。その「表現法」の摸索は魅力ある仕事です。
「受難曲」の演奏をと計画をたてれば、「ヨハネ受難曲」、そして「マタイ受難曲」の両受難曲を演奏することがベストでしょう。
「マタイ受難曲」は「叙情的」な故に通常の形態での演奏、そして「ヨハネ受難曲」はその劇的要素の故に「より理解しやすい舞台化」にとの思いが浮かびました。
以前より気に掛かっていた、一部の「劇的、表現の強さ」の意見に対しても理解していただけるかもしれない。また更なる新たな表現法として一歩踏み込むことができるかもしれない、その良い機会となるかもしれない、そう考えました。
バッハは、聴衆に対して聖書の意味内容を伝えたいとの目的もあって作曲していたわけですから(説教を補う、あるいはそのもの)、バッハの「ヨハネ受難曲」の音楽を決して疎かにしないということであれば、動きや照明を用いて演奏することはそう逸脱したものとは映らないだろうとの判断でした。
また、その表現法の限界線を自分自身で引くためにも、知るためにも思い切った「劇化」は必要かと思いました。
そう結論が出た私にとって、その具体化はそれほど困難なものではありませんでした。
これまでの演奏で、曲に対する私のイメージはどんどん膨らんでいましたし、合唱団もシアターピースなどを通じて舞台全体(ホール全体)を存分に使える力量は備わってきていました。
「ヨハネ受難曲」を一応の成果を得て終結を見た私にとって、その再演においては一歩を踏み出し、表現をより鮮明にして聴き手に理解を深めていただく、そう思うのは私にとって自然な流れであり、演奏という行為にとっても魅力あるアプローチだと映りました。(何度も繰り返しますが、そうであっても音楽を決して疎かにしてはならない、ということはメンバーたちとの重要なコンセンサスです)
こういった思いの末に、「ヨハネ受難曲」のオペラ化が決定され、実現化となったのでした。

「評」のことを書くまでに紙面をとってしまいました。
この項つづきます。

(その2)続きへ。

第111回('07/04/08)「バッハ「ヨハネ受難曲」(オペラ化)を総括します」この項続きます。


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