キリシタン時代の西洋音楽事情


キリスト教が伝来すると共に、教会音楽も日本に伝わってきた。その日本での西洋音楽事情を少し。

シャヴィエル来航3年後の1552年には、山口で歌つきミサがおこなわれたと記録にある。1557年には日本人信徒の二つの聖歌隊により聖週間の典礼が執行された。
器楽も取り入れられ、1562年ヴィオラを日本人少年が大友宗麟の前で演奏したらしい。
1581年の文書には、有馬のセミナリヨではオルガンで歌い、クラヴォを奏することを教え、合唱隊はすでに正式なミサ曲をやすやすと歌うことが出来る、とある。
かの少年使節達もそういった学習をしていたのであろう、ポルトガルのエヴォラ大聖堂で大オルガンを演奏したことが記録に残っている。
フロイスの『日本史』にも、日本人がチェンバロをはじめとした様々な楽器を奏し、西洋音楽に多大な関心を寄せていることに言及している。
文禄年間にはポルトガル風の衣装やアクセサリーなどが流行り、キリシタンでもない人々がアヴェ・マリアやパーテル・ノステルを歌いながら歩くこともあったらしい。

このように日本人は当時も西洋音楽に対する関心は大変高かったようだ。
しかしながら、当時ヨーロッパで全盛のポリフォニー多声宗教音楽は持ち込まれなかったようで、歌はグレゴリオ聖歌が主であったようである(少年使節や支倉常長は派遣先のヨーロッパで聴いたことだろうが。特に支倉常長はヴィクトリアの活躍した教会で洗礼を受けたことが知られている)。
楽譜は多く持ち込まれ、また出版されたことだろうが、残念ながら1605年に出版された『サカラメンタ提要』しか現存していない(この書物についてはこちらを参照)。