キリシタン史 開国、そして‥‥


1853年ペリーが浦賀に来航、世は開国に向かって動き始める。
1865年長崎にフランス人キリスト教徒のために大浦天主堂が建てられる。この噂を聞きつけた浦上村の潜伏キリシタン達はパードレを求めてこの天主堂に向かった。ここに歴史的な信徒発見が起こり、世界中のキリスト教界を驚かせた。
(信徒発見の詳細は、こちらを参照)

五島のキリシタン達も浦上の信徒と連絡を取り合い、天主堂を訪れた。
こうして、次々と潜伏キリシタンたちはカトリックに復帰していったのである。
しかし切支丹禁令高札の撤廃、すなわちキリスト教解禁を前にして、最後の大迫害が起こるのである。

明治政府は神道国教化政策を励行、そのためにキリスト教徒は生け贄となったのである。
浦上村では村民総流罪という浦上四番崩れが起こった(こちらを参照)。

五島では、徳川幕府の禁教令施行当時と同じような激しい迫害が行われる。
吹雪の海中に子供を立たせ仮死状態になったら浅瀬に引き戻す、炭火に掌を入れさせ吹いて燃え上がらせる、戸板を腹の上に置きその上に乗り腹水を出させる、などの拷問が行われた。
また六坪の牢の中に200人が押し込まれ放置された。排便の施設もなく全員立ったままで、全くの地獄絵であった。こうした状態で8ヶ月も置かれ、次々と倒れていった。死んだ遺骸を葬ることも許されず、五昼夜も放置され、死骸は変形し平たくなる有様であったという。
二年後残された者は帰宅したが、その後数人が死亡。帰った家は、郷民によって略奪されており、何も残されていなかった。

さて、次々と潜伏キリシタンが復活した、と書いたがご存じの通り、復活せずに潜伏時代の信仰を保持し続けた人達、かくれキリシタン、がいた。彼らは何故カトリックに復活しなかったのだろうか。

それにはいくつかの理由がある。
・祟りが怖い
・弾圧の中、信仰を表明する勇気がない
・やって来たパードレを祖先が待ち続けたパードレを認めない
・死後、祖先と違う場所に行くのはしのびない、という感情
・祖先の信仰を守るのが正しいと言う感情
・「かくれ」の信仰に矛盾を感じていない
・集団の中に反目があり、復活が躊躇された
・復活を率先する指導者がいなかった
・個人的には復活したいが所属する団体が復活しようとしない
などがあげられる。

祟りが怖い、と言うのは笑うかも知れないが、本人達は至って真剣である。
生月の山田で復活しようという動きが起こり、信仰の隠れ蓑の象徴である位牌を焼く、ということをした。するとその指導者的な立場の者が急死したのである。現在でもかくれの教えに違える事をしたかくれキリシタンが怪我をするという事件が多発しているという。

死後、祖先と違う場所に‥‥というのは、潜伏時代の信仰は間違っているから、祖先は地獄にいる、復活したら天国に行くから祖先とは会えない、と神父が教えると、涙を流し復活をやめたキリシタンがいた、という話があったのである。

集団の中に反目があり‥‥というのは、長崎の外海地方で起こった野中騒動と呼ばれるものが代表的で、復活時にキリシタン聖画の所有権をめぐっていざこざがあった。それを理由に組織が二つに分割、一方が復活、一方はかくれの信仰を維持した。

個人的には復活したいが‥‥というのは、この頃の生活は何にせよ集団であったから、自分が復活したくても、所属する集団が復活をしなければ出来ない、といったこともあったであろう、ということである。

ともあれ1873年、切支丹禁令高札は撤去され、信仰が許される。しかし復活した信者も長い間育まれたキリスト教邪宗観に苦しみ続け、復活しなかった者は相変わらず潜伏時代と似た生活を続けたのであった。

そして現在キリスト教徒は国民の1〜2%に過ぎず、かくれキリシタン達は後継者不足から滅びへの道をたどっている‥‥‥。
これだけ書いてきて、この事実を思うと、何とも切なくなってしょうがない‥‥。

キリシタン概略史は以上。



禁教・潜伏時代