旅のお話その21〜長崎原爆資料館〜


竹内も@シュッツ&モンテです。
長らく滞っていた連載を再開します。第21回です。

原爆資料館へ上がるエレベーターの横、足を痛めていなければ見なかった物、それは二つの慰霊碑でした。
一つは「在日韓国人被爆者慰霊碑」。花や千羽鶴が供えてありました。
この慰霊碑だけでも十分衝撃だったのですが、もう一つの慰霊碑にはさらに衝撃を受けました。
その慰霊碑は「朝鮮民主主義人民共和国慰霊碑」でした。こちらは碑も小さく、何も供えてありませんでした‥‥。

とてもやるせない気分になりました。
異国の地で理不尽な苦しみを受けたあげく、その地の人間の巻き添えを食い被爆した人々。
祖国は分断され、慰霊碑までも二つに分けられている。その一方には一輪の花さえも供えられていない‥‥。
朝鮮民主主義人民共和国の核開発疑惑、ミサイル発射などを思い出します。
慰霊碑が立っても、この国の人達の魂は浮かばれないのではないか、この慰霊碑が二つであるかぎり人々の魂は、さまよい続けるのではないか、などと考えてしまいました。

重々しい気分で、原爆資料館に入りました。
見て回った感想から先に書きますと、自分が恥ずかしくて仕方ありませんでした。

なんと自分は長崎のことを知らなかったのだろう。
長崎のことを軽く見ていたのであろう。
明らかに自分が被爆地広島より、長崎を軽視していたことを思い知らされました。
「8月6日8時15分」は知っていても、「8月9日11時2分」は知らなかったのです。
「長崎も広島と同じ様な被害を受けた」こんな言葉で片づけていたのです!

片づけられるはずは無い。「同じ様」で片づけられる小さなことでは無かったのです。
知っているつもりだったのに、知らなかった。自分がとても情けなくなりました。

展示は11時2分で止まった時計から、浦上天主堂の残骸の再現、中には焼け残った様々な物があり、中には指で触れる物もありました。
その全てが私の胸を締めつけます。
他にも旧ソ連の原爆実験跡地などの写真もあり、それを見ていると「唯一の被爆国日本」と言う言葉は、無知をさらけ出してるような言葉だな、と思いました。

本当に来てよかった、と思いました。勉強になりました。
わかったと思ってることでも、わかっていないことは山のようにある。それがものすごく体感できました。

さて、いよいよキリシタン巡礼の旅、最後の目的地「浦上天主堂」へ向かいます。
浦上キリシタンへの迫害は前に書きましたが、その迫害から解放され建立したのが、当時東洋一であったこの天主堂です。

続く。

00.3.8

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