竹内もです。
連載第22回、今回でキリシタン関係のお話は終わり(と思う)です。
浦上村は戦国期よりキリシタンの村でした。
禁教令で迫害され、潜伏し、何度も崩壊の危機にあっても信仰を守り続けました。
そして明治、待ち焦がれたパードレがやって来て、大浦天主堂での邂逅がありました。
しかし明治政府は、幕府と同じくキリスト教を禁じ、その矛先はカトリックに戻った浦上村の信者達に向けられたのです。
一村総流罪、3394人。苦悩の「旅」。転んだ者、死んだ者も多く出ました。
禁教の高札が降ろされ、帰村した人達が求めたのは拠り所となる神の家、天主堂であったのです。
こうして浦上天主堂の建設が始まりました。
始めは長き弾圧や「旅」(浦上キリシタンは流罪のことをこう呼んだ)の打撃からなかなか抜け出せなかったのですが、1895年着工、1914年に天主堂が完成、3月17日(浦上信徒発見の日)に建堂式が行われました。
総赤煉瓦造りの天主堂は、東洋一の大天主堂でありました。
1925年には双塔も完成し、浦上天主堂は浦上村の信徒達にとってかけがえのない拠り所となったのです。
しかし1945年に悪夢は起こりました。今度はキリスト教信者だけでなく、長崎の人達、皆に災いは降りかかりました。原爆投下です。原爆を投下したアメリカ兵は、出撃前に神父の祝福を受けたそうです。正義のために、と。その正義は、同じキリスト教の教会の上で炸裂しました。
浦上天主堂は破壊消失し、8500人の信徒が爆死したと言います。
度重なる悲劇にも、再び天主堂は建て直され、ローマ法王の訪日を期に、外装を戦前の赤煉瓦造りとし、窓をステンドグラスに変え、現在の姿となりました。
浦上小教区は信徒数8500人。日本で最も多い信徒数を誇る教区となっています。
長い解説になりましたが、そんな浦上天主堂までやって来ました。
原爆の被害を受けた彫像が、そのままの姿で置いてあり、それにも千羽鶴が供えてありました。その色あせた彫像や赤煉瓦は、戦前の姿と、原爆の凄まじさをまざまざと教えてくれます。
彫像
天主堂そのものは、彫像などとは対照的にきれいな建物でした。それもそのはず、外装が変わってから20年しか経ってないのです。
観光客も多く見られましたが、ここは大浦天主堂と違い、カトリック教会として使われています。中に入ることもできますが、入口から奥を眺めるだけでした。
中は光が青いステンドグラスを通し、幻想的な青い空間でした。光線の具合によっては大変美しくなることでしょう。
浦上天主堂
大浦天主堂と違い、ここには教会の雰囲気が漂っていました。人々が祈りに来ている空気があったように思います。ここは人々の思いが詰まった場所でありました。過去の場所である、とは思いませんでした。
基本的にはただの教会なので見るところはあまりありません。外に教会の掲示板がありました。
その掲示板に、柴田先生のオペラ『忘れられた少年』のチラシが貼ってあったのです。
このオペラへの興味と同時に、急にシュッツ合唱団とモンテヴェルディ合唱団のことが強く頭に戻ってきました。“演奏会”のチラシを見たせいでしょうか。
これで終わりだ、と思いました。旅は終わっていませんが、心が‘旅’から‘歌’に戻り始めていました。
歩き出した私が考えたのは、この痛む足でまともに立って歌えるのかなぁ、ということでした。
続く。
00.3.9