'97/5/2

真の文化は<二流>にあり!


二日前に月例演奏会がありましたね。
いつもは指揮をしたり、話をしたりと出演者の一人として舞台に立ち、時には仲間の演奏を聴くために席に居たりします。
しかし、この日は進行をアンサンブルの皆にまかせ、私はひたすらお客の一人となって仲間の演奏を聴きました。
これが良かったですね。
ずっと今もその事について考えています。
真の文化というものは実は「二流」にあるのではないか、そう思いました。
人は「一流」を追い求め過ぎるのではないでしょうか。
よく我々の音楽関係者の中で聞かれる話なんですが、「一流と言われるいわゆるガイタレ(外来アーティストやオーケストラ)の演奏は結構日本では手抜きをしている」とささやかれているんです。
まぁ、そのことの真偽はさておいて、音楽文化というものはやはりその国、気候、生活様式といったことと密接に結びついているものなのですから、その演奏は演奏を産みだした、あるいは日常演奏されている場所で聴くのが理想でしょうね。

音楽は夢を与えてくれる行為であるわけですから、<ステータス>ということにも関係して、有名で誰もが知っていて、お墨付きのものを見聴きしたくなるのは当然のことです。
だれもが手が届き、得られるものではないからこそ人はそれに憧れ、それに夢を抱くことができるんですよね。
でも思うんです。ホンモノの一流の演奏というものはそうあるものでは無いんですよ。そしてその「一流」と言われるものは沢山の二流や三流がいてこそ生まれ出て来るものなんですね。
二流や三流を支える層が厚いから一流も出てくるのですよ。
日本の音楽文化は、クラシック音楽に限って言えばまだまだ文化にはなっていないんですね。
「一流」を追い求めすぎるんです。
「二流」を沢山聴く人が増え、日常的なこととして聴かれるようになって初めて音楽も社会の成熟を満たす一つの担い手となるんじゃないかと思うんです。

仲間の演奏を聴きながら思いました。
彼らの演奏は実に誠実でした。そして素敵な空間を創り出していました。
ファゴットのアンサンブルは、見事なハーモニーと様々な音響、そして楽しい音楽を聴かせてくれました。
弦楽アンサンブルは瑞々しさに溢れ、そしてよく楽器を歌わせての演奏でした。
ヴァイオリン独奏はヴァオリンの持つ表現力の素晴らしさを再認識させられた演奏でした。やっぱりバッハは偉大だ、と思いましたね。
チェロ独奏は演奏を聴き終わって、私は深く息を吸いました。<息をする>ということをこんなに感じさせてくれた演奏はここ久しく無かったからです。

私は誇りをもって言えます。
私たちは偉大な「二流」だと。
「月例会」こそ文化の担い手だと。
ちょっと気負ってますでしょうか?

今日の「日記」はなんか「マイヌング」みたいでした。

'97/5/2「真の文化は<二流>にあり」終わり


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