No.391 '01/10/22

色褪せてしまったファンタジー?


今日、話題の映画「千と千尋の神隠し」を観てきました。
雑誌を見ても、週刊誌をながめても、この映画の素晴らしさが説かれているように感じていました。
合唱団員の何人かからも「いい映画ですよ、見る価値ありますよ」なんて言われていたせいもあって、「ベートーヴェン」からの解放の意味も込めて急遽行く計画を立てました。

実は内心ちょっと不安でした。
みんなが良い映画だといっているものを、私があまり気に入らなかったり、そこまでいかなくても多くの観客動員を果たしている人気映画をみんなと一緒のように思わなかったらどうしよう、なんて考えていたんです。
これまで、いつも話題になっている宮崎 駿の作品を全部見たわけではありません。また、見た作品でも全体を通じての感動度が「最高」というわけでもありません。
しかし、間違いなくいくつかのシーンには心打たれましたし、人間の温かさや自然の捉え方といったもの、そして何よりもその才能に満ちた「宮崎 駿ファンタジー」の世界に感心し、その素晴らしい感性に感動したのは事実です。

どこでも、そして誰もが「良い映画ですよ」なんて言っているのを聞いていたものですから、確認の意味をあってか(いや「良い映画」を観たくなっていたんだと思います)出掛けることにしたんですね。
で、結論なんですが。
私のファンタジーが色褪せたのでしょうか、どうも心が動かなかったんですね。
さすがに登場人物のキャラクターには意表を突かれますし、思わずニヤッとする場面もあるのですが、全体的に見ればどうも私にもあるだろうファンタジーの世界との共振は乏しかったようです。
見終わって、空しさを覚えたのも久しいです。
これは期待しすぎた、ということもあるかもしれませんが、これしきのファンタジーが今日本を湧かしている話題の映画なんだ、ということに空しさを覚えたのでしょうね。

トンネルを抜けると・・・・・というストーリーの始まり、そして「後ろを振り向かないで帰りなさい」というエンディングの設定など、私などはちと「現実に戻って冷めてしまう素材」だと受け取ってしまいます。(私の中では使い古された手法と受け取ってしまうのでしょう。常套手段を持ちうるにはそれなりの効果もあるのですが、それならば常套を越えた必然性・説得力が説明なんか要らないものとして描かれて欲しいのですが、どうもその辺は省かれているように私には思われました)
湯婆婆のキャラクターも面白いですし、私たちの周りにもいそうな、あるいはかつて存在したかのような様々なキャラクター達も面白いです。
その中から色々奥深いことも考えられないこともないのですが、見終わった感想は、色々なことがあるにしてはそのそれぞれの世界が描かれないまま雑多に混在しているだけ、という風に私には思われたのですね。

映画を見ていて面白かったことがありました。
後ろの席に座っていた女の子が「怖い、怖い」といって泣いていましたね。おばあちゃんらしき人がなだめたり、お母さんもいろいろご機嫌を取ろうとするのですが、最後までその子は怖がっていました。
また、前の方の席では赤ちゃんらしき鳴き声が聞こえてきます。しかもその鳴き声は映画のシーンに対応するのですね。つまり恐ろしい顔のアップや急なキャラクターの登場などで鳴き声が始まるのです。最初は私、その鳴き声も映画の中から聞こえてくるものと思っていました。
その子供たちがどんな印象を持ったか、何年かしてから聞いてみたいと思ったのですが・・・・・・無理でしょうね。

「観客の10才の女の子達が、本当の自分の願いに出会う作品に、この映画をしたいと思う」と書いた宮崎監督。
10歳の女の子達が願う、あるいは描いているイメージと離れてしまった世界に私が居るのか、いつの間にか遠く隔たってしまったのだろうかと、少し不安の気持ちで帰路につきました。

No.391 '01/10/22「色褪せてしまったファンタジー?」終わり