深夜鈍行  機械屋のヒトリゴト 物知りご隠居さん  プロフィール
   


日々つれづれ

2022年10月20日(木)
『ネジを作ること』

今週の朝ドラは、
主人公の地元の東大阪の町工場の仕事が、
どんな風に仕事を受けて、
役割分担して出荷に至るかを丁寧に描いている。

お好み焼き屋にいた飲み友達が、
いろんな業種だったことが分かる。
多分だけど、図面から転造の金型を作って、
装置に取り付け微調整しながら、
試作製造、本番生産に至る過程が、
今日までに描かれていた。

脚本家の人は相当取材したんだろうなと。

まいちゃんが本を教えてもらって、
自作の飛行機を少しずつ組み上げていく過程と、
お父ちゃんが新しいネジに挑戦する過程が
シンクロしているのに唸ってしまった。

しかもそのスタートが
生駒山から見下ろした東大阪を
二人で眺めるシーンからて。
今週は唸りっぱなしだ。

#舞いあがれ

2021年3月21日(日)
『写真の可能性』

ニューヨークが生んだ伝説の写真家
永遠のソール・ライター
2021.2.13 土−3.28 日

https://kyoto.wjr-isetan.co.jp/museum/exhibition_2103.html

実に面白かった。
もともとは何かで見かけて、
その色に魅力されたのが始まり。

写真の可能性がたくさん見られる。

面白いのは、1950年代、60年代の写真と
2009年の写真が並んでいるけれど全く違和感がないこと。

まだ未発表の作品があるらしいので、
これからも楽しみ。

視点も面白いし、
色使い(写真のなので取り込む色)、
構図、ピントも楽しい。

2021年3月15日(月)
『今も続いている』


「ロッキード」真山仁

数年前、外食していたころ、店に週刊文春がおいてあり
丁度連載が始まった時だった。
その面白さに、その店に通うという
本末転倒なことが起こっていたが、
諸般の事情で外食の機会が減り、
本にまとまるのを待っていた。

出版されたものは、600ページ弱あり、
辞書ほどの厚みになっていた。
この事件がマスコミをにぎわしていたのは、
僕が小学1年生のころ。
事件の意味が分かるわけもなく、
ただ、世間全般が、汚職にまみれた政治家
というレッテルを貼って大騒ぎしていたので、
よく知らないまま、悪い人なんだなと思っていたくらい。
でも、よくモノマネもされていたので、
良くも悪くも注目される人だった。

東日本大震災以後、近現代史の書籍をたくさん読むようになり、
新聞をはじめとするマスコミに関する見方もずいぶん変わり、
そんな時期に目にした連載だった。
インターネットやSNSもなく、
新聞、テレビ、雑誌が世論をつくっていた時代、
何が起こり、何が伝えられたのか、その結果がどうなったのか、
膨大な資料を基に書かれている。

カウンターメディアが無かった頃のマスメディアの力は強大で、
世論も、それのみに動かされていた。
あれほどの権勢を誇っていた田中角栄氏でさえ、
弁明のための対抗メディアを持たなかった事実は、隔世の感がある。

この書籍で明らかになった事は、
現在も別の形で、別の国も行っていることは明らかで、
それが世界の常識であることを改めて認識できた。

あのまま、角栄氏が総理を続けていたら、
日本はもっと違っていたんだろうな。
ある意味日本の転換点だったことを、強く感じた。

2021年3月11日(木)
『10年前のその日のこと』

東日本大震災で、思い知ったことの一つは、
過去の伝承の重要性だ。
いくつか読んだ記事の中で、
忘れ去られた碑に、津波の伝承が書かれていたり、
神社や仏閣の位置が、
かつて津波が来た位置だったりと言うのを
よく目にした。

一番驚いたのは貞観地震のこと。
東日本大震災があって初めて知った。
他にも、同じ場所で違う時代に起こった
津波を伴う地震を記録した古文書があった。
それを忘れ去ってしまっていたことに
ショックを受けた。

そして実は近年に、
地震と津波が一緒に起こった出来事があった。
1993年に起こった北海道南西沖地震だ。
奥尻島が津波の被害に遭った。
でも覚えている人は少ないと思う。
当時はYouTubeがなかった、SNSがなかった。

私たちが目にしたのは、津波が去った後の景色。
だから津波で何が起こるのか知らなかった。
東日本大震災で衝撃だったのは、
たくさんの人たちが撮影し、
アップした地震と津波の動画たちだった。

それは日本だけでなく世界中の人が目にした。
今でも見れる。
これほどの教訓は人類の歴史を振り返っても無い。
インターネットが存在する限りこの教訓は残るから、
今後、南海地震が起こる可能性が指摘されているけれど、
東日本大震災のことは活かされると思う。

10年前のその日、
大阪では揺れが感じられた様だけれど、
神戸ではほとんど気がつかなかった。
2時間休みをとっていたので、
早めに職場を出た時、
区の広報のスピーカーから
海岸に近寄らないでくださいと言っていたのを、
訓練って言ってたっけと思うほど
気がついていなかった。

気が付いたのは、電車に乗ってから。
ある男性が音漏れを気にすることなく、
ワンセグ放送を見ていた。
そこからは何かただならぬことが
起こった感じが伝わった。
慌てて僕もiPhoneにワンセグアダプターをつけ、
見始めた。

そこに映っていたのは見慣れない大津波警報
という文字と仙台に迫る大津波の映像。

そのリアルタイムの映像は今でも忘れられない。
映画でしか観たことのない光景が
現実に起こっている。
それと付き合っていかなければならない国土に
自分たちは住んでいる。
その翌日に書いた日記。

2021年2月26日(金)
『検索の窓は・・・』

検索の窓は平等に開かれているが、
適切なキーワードを選べるかどうかで
天と地ほど差が出るんだよな。
そして、仮にキーワードが適切だったとしても、
選ぶことができなければ、そこでまた差が出る。
人に尋ねる時も同じ。適切な問いかけと、
聴く力量がなければ、何をしても結果は得られない。

それに年齢は関係ないが、
ある程度年齢が行って、適切な問いかけと、
聴く力量がないと結局何も得られないうえに、
答えからどんどん遠ざかる。
「教えてくれへんのかい」
ていう態度じゃなぁ。

2021年2月21日(日)
『学校が続く』

最近感じる、違和感。
学校がずっと終わらない、
SNSを通して、
学校が染み出している感じかする。
それに伴い、その時の位置関係も
染み出している。
そして、卒業後の社会にも
その雰囲気が作用している気がする。
耳触りのいい正しさが、
清濁を綺麗に分ける理想論が、
クラスの学級委員的な何かが
染み出してきている気がする。
SNSの功罪として、
別のフィールドでやり直すということが
結構難しくなっている気がする。
若い世代はそうでもないのかな。
結局、人の社会は、
集まることで、安心を得る
というスタイルからは
逃れられないのかもしれないな。

2021年2月15日(月)
『性差について』

フェミニストに感じる違和感。
まあ、男性(やり返してこないが前提)に対する、
そこそこ酷い言動が、
彼女たちが非難する男たちがやってきたことをそのまま真似して、
やっているように見受けられる。

そこには女性としてのしなやかさは皆無で、
おっさん化した醜さしか感じないし、男でもその醜さは目に余る。
そして高らかに笑うのだ。
上野千●子氏がテレビに動画として出た時も、
おっさんにしか見えなかった。
田嶋●子氏に至っては完全におっさんで
たまに女のフリするのが滑稽にすら見える。

それは日本に限ったことではなく、
海外の例はもっと顕著に感じる。
彼女たちはいったい何を目指しているのか、
個人的には全く理解できない。
彼女たちの考える平等とは何なのか、
いまだに見えない。

フェミニストに感じる違和感で大きいのは、
彼女たち、彼らたちは、
本当に困っている女性を助けているのだろうか?ということ。
私が知らないだけなら良いのだが、
メディア、書籍、ネットで声の大きいフェミニスト
と言われる人たちが
そこに手を差し伸べているイメージは伝わってこない。

個人的には、
メディアに出ているオカマの人たちを見ると
ホッとする。
マツコさんとか、ナジャさんとかドラァグクイーンと呼ばれる人たちだ。
彼等(彼女ら)を見ていると、失われつつある性差、
女性のしなやかさと、男性の荒々しさを垣間見ることができる。
マツコさんは両方見せてくれる。
その差が面白かったことを思い出させてくれる。
これは時代とともに変わってきていて、
かつて男女の性差がハッキリしていた昭和では、
テレビにはほとんど出てこなかったし、
出てきた時の独特の緊張感が漂っていたことは
子供心になんとなく覚えている。
そう考えると、性差が曖昧になって来たからこそ、
彼等(彼女ら)のメディアへの露出が増えたのかもしれない
(個人的には良いなあと思う)。
個人的にはフラットに一色に染まってしまうよりは、
いろんな色のある世界が良いな。



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