No.('94/10/23)

シュッツ・モーツァルト「レクイエム」


演奏にあたって
当間修一
 人の生涯、それは「死」へと向かう道です。
少し暗く、重たい気持ちになってしまうかもしれませんが、生物の特徴は「いずれ死ぬ」ということにあるのは事実です。
では何故「死ぬ」のか?
生物が「死ぬ」。死んでいくだけならこの世界には何もいなくなるはず、でもそうはならない。それはそれぞれが子孫を残しているからです。
現代の科学の発達は私たちに新たな視野を提供してくれるものですが、この分野における人間の「生命のメカニズム」の解明は私たちの認識を今大きく塗り替えようとしています。
 こういうことだそうです。
人の体は様々な多くの器官から成り立っています。器官をつくる組織、組織をつくる細胞、細胞をつくる分子、それぞれが小宇宙を形作り、我々をとりまいている大宇宙に呼応するかのようにそれらは息づいています。
私たちはどうして死ぬのか?それは細胞の老化による。では老化する原因はなにか。
それは「育つ」からだそうです。話はややこしそうですが、つまり、細胞が生まれるその過程で、それを促すため、死ぬようにプログラムされた別の細胞があるのだそうです。自分の役目を終えて死ぬ、そういう細胞があるというわけです。
分裂を繰り返す細胞。成長のなかでさまざまな種類に分かれていく細胞。死んでいく細胞。しかしその中で絶えず新しくなっている細胞がある。それが遺伝子を含む生殖細胞です。
体は灰と化して消滅してしまうが、後世にはこの遺伝子(DNA)が生き残っていくというわけです。
私たちは「生」を通して(意識していないかもしれないが)この生殖細胞を運ぶ「運び屋」としての役割を担っている存在なのです。
人は「死ぬ」。それは遺伝子を残すための目的によって「生きる」というのです。
そういう意味では、また私たちの体は「消耗品」「使い捨て」の身だとの見方もできるかも知れません。
「生」と「死」とは線上の両端ではなく、分かちがたく、互いが共存していることがらのようにも思えます。

 しかしこれは生物としての体系内で「人間」を捉えれば、の話。
「人間」には人間たらしめているもう一つの重要な側面があります。それは「心」です。
生きる意味を考え、問う頭脳を持ち合わせた人間はそれによって他の生物たちとの一線を画しています。
 「死」へと向かう「生」とはなにか。人間はそれを考えるのです。
人間は二つの側面を持っています。一つは生物として、生殖細胞を運ぶ「運び屋」。そしてもう一つは、「心」を運ぶ「運び屋」としての人間です。
私たちが残せるものは子供たちだけではありません。様々な「心」「精神」を残すことができるのです。
 モーツァルトの血は途絶えました。シュッツも途絶えています。
しかし、彼らの「精神」「芸術」は何百年経った現代にも蘇っています。
彼らの「生」は私たちの脳裏に確かに刻み込まれているのです。
シュッツは彼を尊敬する多くの人々によって生きつづけました。モーツァルトの「レクイエム」は彼の弟子を通じて受け継がれました。
肉体は滅びても彼らの精神は生き残ったのです。人のなりわいとしての成果は生き残るのです。

 私たちは多くの大事な人々と別れなければなりませんでした。この世を去ったその人たちには偉人のように残すべきものは無かったかもしれませんが、いま在る私たちにとって、私たち自身の一部分として脳裏に焼きついている人々です。
私たちが「生きること」、それは脳裏に刻み込まれた人々のことを「自分のこととして」伝えることだと私は思っています。
 ヨーロッパでは多くの「レクイエム」(死者のためのミサ曲)が書かれました。
人間が持つ「死」に対する恐怖。「死の恐怖」の呪縛からの解放の気持ちがこれらを生み出す基となっています。これらは勿論亡くなった方々への鎮魂のためですが、それと併せて、生きている者への慰め、励ましでもありました。人々はこれらの曲によって、死者を想い、心の慰めとしたのです。そういう意味で、これらの音楽を純音楽として聴くだけでは、あるいは演奏するだけでは重要な何かが欠けたものとなってしまいます。
 モーツァルトの「レクイエム」は彼が死んだ5日後の12月10日、彼自身の追悼ミサのために友人たちによって演奏されていました。(これは最近解ったことです。それまでは初演は2年後の1793年1月とされていました。)しかしこの時は完成されていた「イントロィトゥス」と急遽オーケストレーションされた「キリエ」の2楽章だけです。
この作品は成立したときから「レクイエム」としての本源的なあり方として受容されてきたのだといえましょう。(今夜使用するランドン版は献身的に関与した弟子たちの統合版ともいえるものです)
 シュッツの「ムジカリッシェ エクセークヴィエン(1636刊)」(葬送音楽)はドイツ-レクイエムと呼ばれています。作品はある貴族のために書かれたものですが、シュッツの「生」に対する慈しみ、優しさ、そして確信による強さ、厳しさに溢れた最高傑作です。広く知られた作品ではないかも知れませんが、作曲家の真摯な祈りの曲としてもっと知って頂きたい曲の一つです。
 今夜、このドイツの二人による「レクイエム」は、同じキリスト教でありながらもプロテスタントとカトリックの典礼による様式の違いを見せています。私は今夜の演奏を、モーツァルトの「レクイエム」の受容史にランドン版をもって1ページを加えること、そしてシュッツの傑作を知っていただき、皆様と共に、この世を去った人々に思いを馳せる事が出来ればと願って計画を立てました。これらの事が時空を超えて、この世に別れを告げた人々との魂の触れ合いの一夜になることを願っています。

私たちは今夜の演奏を次の方々に(敬称は略させて頂きます)
大井辰子 大村 保 岡本順一 糟谷眞子 木村輝子 藤 貞之 前川祐子 宮本園子
そして大阪H・シュッツ合唱団の団員であった松田純平に、そして多くの別れた人々へ、また、今夜共に時を過ごしていただく皆様に捧げます。





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