八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.35


【掲載:2014/08/21(木曜日)】

やいま千思万想(第35回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[心の中で、手を合わせて祈る]

 また暑い日がやって来ました。
人の心の中が疼(うず)く、哀しみの日がまたやってきました。
沢山の命が失われ、それを悼む多くの人々が、嘆きの涙を流す季節がやって来ました。祈りの日々が続きます。
 夏だけが祈りの季節ではないはずですが、私たちにとってこの季節は大きな歴史上の一つの区切り(戦争の終結)、特別の熱い祈りの日々なのですね。
祈りは一年365日、いや命が続く限り「祈る日」とならなければなりません。
人間が人間となったのは他者の死を悼むことから始まったと以前書きました。私たちは他者の命を想う祈りをもって、人と人との繋がりを作ったからです。

 しかしながら、私は手を合わせて祈る「合掌」が苦手です。
いつの頃からか手を合わせることに抵抗感、いや拒むようになってしまいました。
合掌が偽りの姿だと映ってしまったからのようです。
祈る人の姿は美しいと思います。
 その姿は本当に私の心を打ちます!しかし、無心に手を合わせたいと思いつつ、私はいまだその瞬間、その姿を懐疑的に見る自分が現れて、手を合わせることができません。
いい年をして、と思うのですが、どうしても祈る人間のもう一つの顔が浮かんできて手を合わせられなくなってしまうのです。
 それは偽りの顔。
 見たことのない顔。
 表ではない裏の顔なのか。
 心ない顔!
きっとそれはこれまでの私の人生の中の出来事が大きく影響を与えているのだと思います。
今、私が祈る時、私はじっとただ佇(たたず)み、長い時間、頭(こうべ)を垂れるだけ(心の中で手を合わせながら)。
それが精一杯の私の合掌の姿となりました。

 合掌とはインドを起源とした祈りの仕草だそうです。
胸または顔の前で両手を合わせて祈ることをいいますね。
右手は仏、左手は衆生(自分自身)の意味をもち、両手を合わせることで自身と仏が一体になると言います。
 また、その合掌を他人に対して行えば尊敬の念を表す姿ともなるのだそうです。
ある詩人は以下の様に両手を合わす姿、意味を綴りました。
・・・両手を合わせる、両手で握る、両手で支える、
両手で受ける。
 両手を合わせれば喧嘩は起こらない、それは殴ることができないから。
片手では落として壊してしまうものでも、両手で持てば落とすことがなく壊れもしません・・・と。(文は意を汲んで私が書いたもので詩そのものではありません)
ある有名な高僧はこうも言ったそうです。

 「幸せになりたいのなら、きちんと手を合わせましょう。
合掌しましょう。両手のしわとしわが合わさって、幸せになるのです」と。
実に妙を得た喩(たと)えと言えるかも知れませんね。

 祈ろうと思います。
 毎日を祈ろうと思います。
心の中で、心の疼きを感じながら、絶叫の思いをもって私は祈りたいと思います。
 人間が持つ性(さが)故の愚行、人が人の命を絶つことにならないようにと、祈ります。全ての人々に幸せが訪れてこそ真の己の幸せもまたある、そう私は信じて祈り続けたいと思っています。





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