八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.50


【掲載:2015/03/18(水曜日)】

やいま千思万想(第50回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[心の拠り所を人はどこに求めるのか?(パート2)]

 現代の「心の拠り所」とはどこにあるのか?どこに求めればよいのか。
前回、それは優れた「理性」と「知性」を培(つちか)い、そしてそれを保ち続け、この地球という大自然の中で謙虚さと感謝をもって全ての人間が全ての人間のためにそれぞれの役割を持って生きること。そして皆が皆の役に立つよう、生かされているこの命を感謝をもって生き抜くという中にあるのではないか、そう書きました。
ではそういった生き方は何によって生まれてくるのか?
それは「命」を見ること、そしてそれぞれが「信頼」で繋がっていることではないか?これが今回の主旨です。

 人間は、生き方と死に方を見つめることによって自らの生き方を貫く強さを持つことができる。
大事なのは自身の動向を定めるためにも人の中にどういった生き方を見るか、どういった死に方を見るかではないか。
とは言え、人の生き方というものはなかなか見えにくいものです。表に現れるのは全てではないからですね。
しかし死ははっきりと見えます。そしてその様はその後も強く印象づけられたものになります。
「死」は恐怖です。
しかも確かにやって来ます。
人間にとって未知なる、暗黒の領域です。
例えばそれが見える形として映ることになる、長く苦しく重い患いの中での死であったり、不慮の出来事での死となれば、それはもう居たたまれない気持ちで一杯の、忘れる事のできないずっと後を引く想いとなることでしょう。
人間は死というものについて深く考え、また多く見聞きする体験によってこそ、生きるということを何よりも充実させるのだと私は思います。
死を見つめることで、人は歩みの道を狭くもすれば、広く長く先へと繋がる道にも出逢えるのではないかと思っているのですね。

 死と並んで、もう一つ居たたまれない気持ちにさせるものに「信頼」という人間関係があります。
人は人と交わってこそ人間になるのだと再三にわたってこのコラムで書いてきましたが、その交わりを確かなものにするには「信頼」が必要です。
殉教というものがありますね。殉教とは宗教上での犠牲のことですが、宗教上でなくてもそれに似たことは、いつの世でも、何処でも起こり得ます。
キリスト教での殉教は有名です。歴史上、多くの人々が信仰を貫くために悲惨な死を遂げています。
この八重山でも石垣永将(えいしょう)とその一門の殉教が知られており、それらの死もまた人々の無理解や信頼と疑心に関連していたことは想像に難くありません。
殉教となった人たちのやり切れない悔しさの思いとは、周りに理解されず、言いたいことも言えず、弁明もできず、意に沿わぬものに従わされ、一方的な命令によって人間としての誇りと尊厳を喪失させられようとした無念泣きであったかもしれません。

 死と向き合う人生でありたいと願っています。
無念の思いが残らない生き方を目指したいですね。
全ての人が垣根を越えて「信頼」で結び合う社会を求めてです。





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