八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.68


【掲載:2015/12/24(木曜日)】

やいま千思万想(第68回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[年の瀬は「第九」一色]

 「さまざまな音世界 音律の話」を今回休ませていただいて、ベートーヴェンの「第九」の話をさせてください。
年末となると日本中が「第九」を演奏します。これは日本特有の習わしになったようです。
毎日、どこかのホールで「第九」が聞こえてくる、毎日はしごで聴いて回るという御仁もおられるようです。
 これはある意味異常なことかもしれません。
日頃、クラシック音楽に関心がない方でも「第九」だけは「聴きに行ってもよい」と思われるのでしょうか、確実に聴衆の数が増えるのですね。演奏団体にとってはドル箱です。
ベートーヴェンの交響曲全曲演奏をする私でもなかなか「第九」は演奏できません。そう簡単には演奏できない、といったほうが良いでしょう。
 オーケストラにとっては難曲です。とても難しいのですね。
巧妙につくられた音の構成は熟練の技が必要。時間をかけた練習が必須となります。
長時間の演奏(約一時間かかります)の中、有名な合唱が演奏されるのは十数分という短さ。
 しかし、合唱団に要求されるのは高音の維持とドイツ語によるリズムの細かい動きであり、そしてエネルギー一杯の大きな声です。
 独唱者4人も加わりますが、このそれぞれのパートも少し声楽を習ったということではできない難度の高い声の響きとその質が求められています。
オーケストラ、独唱者、合唱、どれをとってもそう〈簡単〉には演奏することができない大曲なんですね。
 しかしながら、やはりこの曲は言葉では言い尽くせないほどに素晴らしい!
演奏し終えての、聴き終えての感動は確かに「人間を結び付ける」、圧倒的な力を持っています。

 年の瀬、私は意を決してこの難曲を久しぶりに演奏することにしました。
その演奏を終えてこの原稿を書いているのですが、改めて思うのはベートーヴェンの作曲法の巧みさ、そのメッセージの力強さ、そして基調に潜む狂おしいまでの美しさです。

 当日のプログラムに掲載した私の拙文、「演奏にあたって」の一部を転載します。
『「大阪コレギウム・ムジクム 」を創ってから四十年が経ちました。
多くの曲を演奏してきたのですが、そのコンセプトは「人間」です。
大きくうねる歴史の流れに翻弄されながらも、一歩一歩深く、重く、逞しく生きてきた人間の歩み、作曲家の生き様とその作品とに感銘を受けてのレパートリーではないかと思います。
「第九」の初演は200名ぐらいで演奏されたとの記録がありますが、今日はその半数の演奏者による演奏。
四十年の節目とは言え、人間の歴史から見ればあまりにも短いものでしょう。
しかし、その歩みは私にとってかけがえのない多くの方々との「生命の刻み」、出会でした。
そのことの感謝はとても言葉では言い尽くせません。
今日の演奏が言葉を超えての感謝の思いとなりますように。
「人間」の賛歌となりますように。渾身の棒を振りたいと思います。』

「第九」、それは日本において「確かな存在」としての地位を確立したのかもしれません。





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