八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.82


【掲載:2016/07/21(木曜日)】

やいま千思万想(第82回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

ことは洗練されなければならないか?

 〈洗練〉という言葉に惹かれます。
洗練とは、辞書には優雅で品位の高いものにみがきあげること、と載っています。
品位の高いもの、そうなるよう磨きをかける、これはすんなりと私の身に入ってくるのですが、優雅という言葉に少し抵抗を覚えるようです。
優雅とは上品でみやびやかなこと、やさしい美しさのあること、と辞書にはあります。
磨き上げられるものが〈みやび〉〈やさしく〉〈美しい〉ものでなければならない、これはなかなか難しいです。
私は思うのですね。荒々しく見えるものであって良い、美しいという範疇でなくても良い、雅(みやび)が宮廷風にという意味ならば貴族のような振舞いでなくても良い、そのものが鍛え上げられて孤高のものとなり、他を寄せ付けない域に到達していることだと。

 「洗練」になぜこだわるか? 八重山のことを考える時、時折この問題を考えるからです。
町や建物が、自然の風景が、そして人までもが都会のように(という意味を含んでいるのならば)洗練されたものになる必要があるのか、ということなのですね。
田舎で良い、不便でも良い、格好悪くたって良い、そうではなく、成り振る舞いが理にかなっていて人を魅了するほどのものであれば、それが「洗練」されたということなのだと思うのですね。

 音楽を通して私はそれを学びました。
やさしく、美しく、みやびなものが良いのではない。荒々しくても、歪(いびつ)であっても、真に心に迫ってくる音楽が良いのだと思うに至ったのですね。
ただ、これは私が私の拠点である大阪という狭い地にこだわり続けていただけなら判らなかったことでしょう。
地を離れ、様々の価値観の中で生み育てられた各地のものに触れ、感じ、学ぶことで識ったことでした。
国内、国外での演奏体験がそれに気づかせてくれたのだと思います。
住み慣れた地を離れ、各地でも受け入れられる人格と技を身につける、この大切さを知りました。

自分だけの狭い地にこだわるということは、我田引水(がでんいんすい)、唯我独尊(ゆいがどくそん)、ということになりかねないのですね。
他を知って、他を取り入れて、我がことを磨き、高める。
この取り入れ方や選択、そのバランスが難しいと分かりながらもこれを実行していくしかないと思う私です。
私の「洗練」された、とはそれを意味するものです。

 辞書上の「洗練」の意味を続けましょう。〈品位を高める〉は受け入れたいですね。
この〈品位〉とは見る人が自然に尊敬したくなるような気高さ、おごそかさ、豊かさという意味で使うのですが、そうなりたいと心から思います。
そのような真なる振る舞いをしたいですね。一朝一夕にはできないことですが、それこそが人が目指すべきものではないかと強く思います。

八重山の地や人を考えるとき、〈洗練〉されたものに!と願う私が居ます。
人々を魅了するほどの、気高さ、厳かさ、豊かさを兼ね備えた存在。
そのような島であってほしいと願うのです。





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