八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.92


【掲載:2016/12/22(木曜日)】

やいま千思万想(第92回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

持ち運べる音・持ち運べない音の文化

 まだまだ忙しい日々が続いているのですが、年末年始は旅行を計画して少しお休みを頂こうと思っています。
行き先は石垣もその選択肢の一つだったのですが、今回はこれまでと違った風景の中で、仕事も兼ねての休暇となりそうです。

 作曲や編曲ができなかった一年でした。思いが堪(たま)っている、募(つの)りすぎていて〈しないこと〉ゆえのストレスになっていたようです。
作曲はある詩人のお気に入りの詩をテキストにと思っていますし、編曲は全国の《子守歌》によります。そしてできればそれらを進めていく間にも私自身の《子守歌》を作りたいと思っています。

 前回、武満徹氏とのインタビューによる立花隆の著作「武満徹・音楽創造への旅」をご紹介しました。その中には私自身に深く刻み込まれてしまった語句がいくつがあるのですが、中でも〔持ち運べない音〕という言葉が印象に残ります。
つまり音楽(文化)には持ち運べる音(文化)と持ち運べない音(文化)があるということですね。
そういった文化論が、それぞれを尊重しながらそれらに立ち止まっていてはいけない、という話に展開していくのですが、私も結局その道を歩んできていたのですね。
著書のなかでのそれらの音、文化を象徴する楽器は日本の琵琶や尺八、インドネシアのガムランを指しているのですが、沖縄の三線もこの部類に入ると実は思っています。
 私が曲を作ろうとするとき、「沖縄」の音楽を是非作ってみたい。それでは三線を、というアイデアは直ぐに浮かぶのですが、それには未だに私の頭からゴーサインが出ません。
これまでの洋楽の響きと三線はそう簡単に馴染むものではないからです。
安易には合わせられないのです。
新しい様式、響き作りの中でなければ両者にとって何の魅力も発揮できないのではないかと思っています。

 私が目指そうとしているのは、まだ存在しない未来の響き。
洋楽の楽器と沖縄の伝統的な楽器(可能であれば地球上のあらゆる楽器)が織りなす新しい響きです。
そのことがずっと私の音楽作りの中にあった、とその本を読んでの再認識です。

 生活のなかの音楽。特定の土地と時間を必要とする、他の地には持ってはいけない、運べない音楽。しかし、そういった文化を背負った音楽(響き)が普遍的なものへと変容する。
人と人とが結び合う、関係し合う響きへと向かう。それを目指します。

 過日、67歳にして初めて入院を体験することになりました。
これまで大病というものを知らない私。病院に行くことも、医者にかかることもほぼなかった私にとってそれは初めて尽くしの連続でした。これについては次回で報告させて頂きたいのですが、そこで見聞きしたことは今の社会に起こっている紛れもない状況、姿だと見て取りました。
頼もしさ、快挙、幸福、未来、そして落胆と絶望に近い風景がそれらに絡むように混在していました。
ベッドから眺める医療の世界は驚きの連続です。
遅すぎた初めての体験を次回に綴ります。





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