八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.126


【掲載:2018/05/31(木曜日)】

やいま千思万想(第126回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

「島唄」に込められた情熱は世界共通の歌心です

 私の仕事畑は西洋音楽で、その中でも「クラシック」と呼ばれるある種特異な分野です。
沖縄人を両親に持ちながら、大阪で生まれ育った人生。
幼い頃からどこか周りとしっくりいかないことを感じながらもある年齢までは何一つ疑問を持たずに育った呑気者。
しかし、そんな人生にも転機は訪れるものです。「血は争えない」というところでしょうか。
周り(本土の人)が当然のように押し付けてくる価値観がどうしても理解できず、反抗精神は年を重ねるごとに強くなるばかり。
早くから「ウチナー」として育っていれば心の中の摩擦、軋みはハッキリと自覚されたものとして行動できた筈。
しかし、両親は「ウチナーンチュ」であることをどうも話したがらずにいたよう。
今から思えばそれが我が国の歴史でもあると理解できますが・・・。
周りと「何かが違う」ということでネガティブ(否定的)になるのではなく、私の場合は音楽によってポジティブ(肯定的)になれたと思っています。
ハッキリと現れたのはリズム感、しかし本当のところは音楽に対するアプローチです。
物事への視点の置き方と音や言葉に対する〈心根〉が異なります。
私の転換点は「強きものへの不信感」から始まったようです。
「弱きものからの視点」がなければ心が動かない!この自覚が私を更に確信へと向かわせました。

 西洋クラシック音楽は貴族への追従(ついしょう)音楽だと言われています。
確かに〈へつらい〉の歴史の中で生まれ育ったとも言えます。が、その中にあって本物になった音楽とは、反抗と革新への情熱と、そして「希望」と「熱望=祈り」のある音楽です。
世界には多くの「歌」がありますが、民衆が歌うところにこそ歌としての「本物」があります。
民謡とか子守唄とか恋愛歌とか、更には冗談音楽、春歌にもです。
そこに「人間愛」があればということになりますが。
「島唄」の本質は正にそのことにあると考えます。
安らぎへの思い、平和の祈り、自然の素晴らしさ、人としての尊さを歌う。
それらを歌うにはその底に「人生の軋み」の体験がなければなりません。
優しさに満ちた歌であったとしても不屈の強さがなければ「本物の優しさ」にはなりません。
強さは軋みの中に現れると考えます。

 島唄は「ウチナーンチュ」でなければ歌えないというのは本当でしょう。
それによって「シマンチュ」の結束、絆も強くなる。
それは島の歴史と独特の風土、自然を共有しているからです。
私が歌っても、たとえ上手く歌えたとしても島唄にはならないと思っています。
しかし、精神は国や文化が違っても音楽を通じて理解し、同志として共存できる。
音楽のジャンルが違っても結び合うことができると信じます。
音楽する魂が、心からの〈人間を思う真の叫び〉となれば、それが「島唄」の精神。
「ウチナーグチで歌われる島唄」が多くの人々に、広く、演奏され聴かれますように。
そして同じ思いの人びとが全世界に広がっていきますように、と強く思います。





戻る戻る ホームホーム 次へ次へ