No.9('92)私はやはり「人」を愛することが第一です
今日は自分のことを書いてみます。少し照れくさいという気持ちも手伝ってか緊張気味ですが、日頃、ふっと我に返った時などに思い浮かべていることを綴ってみようと思います。
少し恥ずかしいテーマですが、
「私はやはり<人>を愛することが第一です」にします。
人間を宗教的とそうでないものとに分けるのは短絡的すぎるかもしれませんが、時々これについて考えてしまいます。
その分け方からすると、私はやはり宗教的な部類にはいる人間でしょう。
宗教的だからこそ教会に通い、洗礼を受けクリスチャンになったのだと思います。
思い出すのですが、私は小さい頃よく道端にある地蔵さんや変わった石などを見つけては手を合わせて祈っているような子供だったそうです。
その時は何を思って手を合わせていたのか?
ハッキリとは思い出せません。
しかし日常的な出来事の中で、自分との対話をしていた貴重な瞬間だったと今思い返すことが出来ます。
中学の頃に国語の担任の先生に言われた言葉が今も私の脳裏に焼き付いています。
それは「貴方の文章はいつも反省している文ですね。こんなに反省ばかりする必要はないのですよ」と言われたことです。
小さい頃から、自分との対話は自分に対する反省だったのかもしれません。
今も反省しどうしです。反省することで自分よりも先に人に興味を持ち、そして、人を分析する中で自分の存在を確かめるという繰り返しです。
「他人」というものの存在を理解することなしには、自分を成り立たせようが無かったのです。自分に自信を持って自分を切り開いていくというのではなく、人の存在の摩訶不思議さに恐れを持ちながら自分を見つめ、人の関係を考えたのだと思います。
演奏活動に入った最初の頃と現在の私の大きな違いは、言うことであれ、行動することであれ、自信に満ちあふれているかのような振る舞いに今は見えていることかも知れません。
しかし、それというのも無責任な言動や、理に合わない思考の結果、自己矛盾に陥って自虐するしかなかった人たちを沢山見たために、自分なりの考えが私の中に確信となって出来上がったからでしょう。
私から見て、周りには本当に黙っては見過ごすことが出来ない、明らかに本人の求めていることとは違う方向に行きかけている人を沢山見かけます。
私は、人にお節介をやいたり、説教のようなことをするのが決して趣味ではありません。
上にも書いたとおり、意見を言ったり、説教のようなことをしてしまうのは、人のことが自分のことと同じであり、人も同じように大切にしたいと思っているからです。
黙って見過ごすわけにはいかないのです。
人と自分との垣根のような境界線、そして、こだわりが今本当に無くなったと思っています。
今までに随分と私は人の中に割り込んで話をしたことでしょう。
本人たちにとっては、決めつけに聞こえたり、何故そこまで立ち入ってくるのか判らないので困惑したり、迷惑でもあり、驚きであったかもしれません。
しかし、どの場合にも、無責任に言ったこと、展望もなく言ったことはないと今でも信じています。
私がものを言うとき、いつも二つのことを心掛けています。
一つは、相手との共通項のところだけでお喋りをし、いかにも判ったような気になってしまわないようにしていることです。
人は自分を理解してもらいたいためにお喋りをします。
自分を理解してもらえば、あるいは、理解してもらえていると思えば、その事の是非を判断することなしに満足してしまいがちです。聞いてくれている相手を友人だと思ってしまいます。しかし、それは単なる愚痴の言い合いであったり、ただのはけ口なのです。
二つ目は、私は、私と相手の両者を超えたところで話をするよう努めていることです。
お互いの価値の基準を超えるところを探そうとするのです。
価値の基準を自分に求めると、自分の都合のよいものばかりに落ち着き、本質を見失ってしまいます。
自分たちを超えるものに価値の基準を置く。或いは、探り、求める。それが互いの欲や都合に縛られない、他の人にとっても良いものとなるに違いない結果が得られるのではないかと私は考えているのだと思います。
私は自分を好きに、そして愛せる人間になりたいのです。
しかし、その前に、「人」を、「人間」を私は愛しているのだと思います。