No.7 '02/12/14

「拍子」の不思議


指揮者にとって、テンポを示すことの重要性はNr.2「テンポ設定」でも書きました。
演奏者に一定のテンポを示す、このテクニックはアンサンブルを整える上で欠くことのできないものです。
しかしこの「拍子」、実は奥深いものがあって簡単に「振りますから、ハイ!合わせて」というわけにはいかない事情があるのですね。

この「拍子」というもの、なかなかくせ者なんです。
どういうことか?
それはですね、「拍の長さが一定ではない、均等でない」ということなんです。

3拍子の例をとって説明しますね。
たとえば<3/4拍子>と書かれた曲ということであれば、4分音符を単位時間として4分音符3個分が一小節ごとに区切られている曲ということ。その、一拍、二拍、三拍が等間隔ではない、等分されないということなんです。
具体的に記せば、一拍目と二拍目とが引っ付き、三拍目はアウフタクトの役目を負って少し時間的に長くなります。(二拍目が時間的に短くなり、その短くして余った時間を三拍目が取る、という風ですね)
これが心地よいリズム感。
自然の営みと共通したリズム感。
拍は一定の時間的間隔で進むのではなく、それぞれに固有のキャラクターを持った拍として特有の時間の長さを受け持っているというわけです。(それぞれに持つ拍のキャラクターについてはまた説明したいです)

4拍子では。
一拍、二拍、三拍と時間的長さが短くなっていき(三拍目は一番短いです)四拍が一番長い時間を取ります。

2拍子では。
二拍目(アウフタクトの役目もあって)は時間的に長く、一拍目は短い。

これが「拍子」の「隠し味」なんです。
ちょっとここで私の告白を。
指揮を始めた頃、悩みましたね。
この「拍子」の取り方が周りの音楽家たちと違っていたんです。
私が感じていたリズム感が<周知>であり<共通項>ではなかったのですね。
「矯正しなければ!」、とメトロノームを使って昔は随分訓練しましたね。(笑)
でも体がどうも窮屈で違和感がずっと続いていたんです。
自分が機械になっているようで、<一拍の中に感情を込める>なんてほど遠いものでした。

確かに、等間隔に刻んでいくテンポでは練習時における演奏者に対する解釈等の説明も多くの時間を必要としませんし、何と言っても練習時間の短縮につながります。それに、歴史の流れに沿ったスマートな演奏にもなります。
個人的な色合いを少なくするためにも、演奏者全員の合意を得られやすいメトロノーム的均等間隔のリズムが多くなっていったのは歴史的必然だったかもしれませんね。

棒のテクニックを磨く、という意味ではメトロノームに合わせることも大事なことなのですが、いざ「音楽を振る」という段階になればこの「均等でない拍の長さを振る」ことが是非とも必要だと私は考えます。
そこにこそ「個性」の発見があり、「解釈」が成り立ち、何よりも人間としての「生理的動き」と連動する自然なリズムが生まれます。

「拍子を刻む」、この一件簡単そうなことが実はとても人としての奥深い所と関連しあっているのですね。

メトロノームは必要だ!
しかし、「音楽」はメトロノームが無いところに存在する
のだ!(笑)

指揮者として頼れるものはやはり、音楽家としての個性である「自分自身の内在するテンポ、リズム」なんですね。

No.7 '02/12/14「「拍子」の不思議」終わり