7月25日 レンブラント版画展


7/22に京都駅の駅ビルで開催されていた「レンブラント版画展」に行ってきた。
23日に「邦人合唱曲シリーズ」を控えていたので、またもコンサートの前日である(「オランジュリー美術館展」も東京公演の前日に行った)。
忙しさにかまけて、結局最も忙しい時に行く羽目になってしまうのだ。
自分の計画性の無さを痛感、というかめんどくさがりなだけか。

この展覧会は「フェルメール展」と同じく日蘭交流400周年記念として開催されていたが、「フェルメール展」のような凄まじい混雑は全然なく、割と落ち着いて見ることが出来た(会期が押し迫っていたので、それなりに人はいたけど)。

この展覧会はレンブラントの手による銅版画156点が展示されていた。
私は今まで版画の世界というのはよくわからなかったけれど、十分に楽しむことが出来たのである。それもレンブラントのパワーだろうか。

まずはレンブラント自身の自画像からである。様々な表情、様々な姿をしたレンブラントの自画像。これらは皆小さいものであったが(縦横が5〜15cmくらい)、レンブラントのエッチングの世界に引き込むのに充分なパワーを持っていた。
その細かいような粗いようなタッチ(て言うのかな?)、表情の豊かさ、そして私が特に注目したのは目である。
普通に見ていても十分豊かな表情なのだが、近づいて目を見てみると、これがまたそれだけで何かを訴えかけるような表情を持っているのだ。
動きだしそう、とかいうのではなく、動いているものの瞬間を切り取ったような表情がすごく良い。
銅版画で、「カメラは見た決定的瞬間!」を見ているようであった。
この特徴はこの後の展示全てに言えるようなことである。

次は風俗・神話・寓意・狩猟・静物といった様々な題材の世俗作品である。色々なテーマの銅版画はそれぞれに味があり、楽しませてくれる。絵画は高級感があるが、こちらはよりしぶい味わいだ。
個人的には「身を切るような寒さだ、と叫ぶ農夫」と「そんなことはない、と答える農夫」の二連作品が好きだ。妖しい表情が何とも良い。版画だから刷ったら反転する事を忘れて作ったので、農夫達が背中を向け合う羽目になっているのがオシャレだ。

お次は旧約・新約聖書・聖人の世界。この辺のテーマは宗教曲をよく歌う身にとっては興味の湧くところである。
派手派手しいカトリックの宗教絵画とは違い、モノクロのシブい世界。それでもその光と影の使い方は驚くべき効果を生みだしている。下手なカラーの世界よりも生き生きとしている。そして止まっているのに前後のドラマを感じさせる作りは圧巻である。

合唱団のE君が「版画の暗闇なのに段々目が慣れていく気がする」と言っていた。なるほど確かにその感覚がある。不思議でスゴイ。

風景も何点かあった。これらは何故か不思議な感覚を持った。
空虚なような、ホノボノしているような。広いんだけど、収まっている。そして一様に静かだ。
絵画と一番違う味があるのは風景かも知れないな、と思ったのである。

あと、習作、肖像、ヌードなど展示されていたが、この展覧会を通じて同じような作品が一つもない、と感じた。全部同じ様でもあるが、持っている性格は全て違うと思えた。
どれもこれも素晴らしい力を持っている。

そして最後が面白かった。「口を開け帽子をかぶった自画像」という小さな自画像で終わるのだが、その驚いたような表情が何とも楽しい。ホッとした気分で展覧会を見終えることが出来るのだ。
この版画を展覧会の最後に持ってきた人はすごいオシャレな人だ、と思ったのである。

156点全てがレンブラントの世界。それに浸り切れて非常に満足したのであった。同じにして、多彩なレンブラントのエッチング。
版画の世界にもまた興味が湧いてくる。
9月には同じ京都駅ビルで「シャガールの傑作版画展」があるのでそちらにも足を運ぼうと思う。

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