邦人合唱曲シリーズVol.6(7/23)が終わった。
邦人曲を歌う楽しみの一つに、詩との出会い、がある。
今回のシリーズはそれを特に思ったのであった。
『ELEGIA』の不思議な詩も良かったが、何と言っても『縄文』だ。
こんなに詩からインパクトを受けたのは久方ぶりである。しかも曲になってる部分ではなく、わざわざ買ってみた詩集の方からのほうがインパクトが強かったのである。
例えば『はじめのはじめに』の「雲」。
すごい。たった1ページめくっただけで涙にあふれる詩集なんて初めてだ。
例えば『はじめとおわりの』の「鏡の雲」。
泣くしかない。私はダメだ。きつすぎる。
邦人合唱曲とは現代詩人と現代作曲家の共演である。それは饗宴でもあるし、競演でもある。
作曲家は刺激を受けた詩に作曲をする。上手くいけば嬉しく、上手くいかなければ悲しい。
詩人は作曲された曲を聴く。自分の書いた詩にどのような作曲がされているか。それを聴くとき、嬉しくなる時もあり哀しく時もあろう。
自分のしたためた思いが他人によって表現される世界。
自分の受けたものを全て表現し尽くせるか否かの世界。
詩と音楽の世界は恐ろしい。恐ろしくなければ楽しくないが。
『縄文』の曲の世界と詩の世界を行ったり来たりしてふと思ったことである。うまく文章になってないことが私は哀しい。
何故だろう、谷川俊太郎の『はだか』から「さようなら」と『クレーの絵本』から「階段の上の子供」が頭の中を巡りだした。
そしてふと頭に浮かんでから離れない一節。そんなことはない、自分に言い聞かせても離れない一節。
「詩に出会うことは、死と出会うことである。」
何故私はそんなことを思ったのであろうか?
訳の分からないまま今回は終わる。酔っているのかもしれない。
00.8.9