声明と舞楽の夕べ


どうも最近このコーナーが更新できない。更新できない理由はいくつかある。
1つ目は忙しい。これが大部分。
2つ目は歌が上手になるにつれ、歌の世界を深く知るにつれ、歌について書くことが難しくなっていく。自分の思いが字では表現しきれなかったり、自分ごときが歌について何か書くなんておこがましい、と思ったり。もっと気楽にかまえて書けばいいのに、とは自分でも思うのだが、やっぱり書くのって怖ろしい。
3つ目にはここに何か書くとなると、その時やってる曲が対象となる事が多い。結果、演奏会の宣伝だけになってしまう可能性がある。それがなんとなくイヤなのだ。せっかくインターネットなんだから宣伝に使えばいいじゃん、とも思うが、この「俺達の唄」はそう言うつもりで始めたのではないので‥‥。どういうつもりで始めたの?と聞かれても答えるのは難しいけど。
ホント、私って不器用だ。
前置きが長くなった。本題に入ろう。

3/13に大阪市中央公会堂で行われた「声明と舞楽の夕べ」を聴きに行った。声明と舞楽が同時に行われるのは珍しいとか。ま、そらそうだわな。
1000人入るホールは満員。客層は私の所属する合唱団の演奏会とはちょっと違って、ほとんどが中年から年配の男性。女性は少な目だった。お坊さんとか信者さんらしき人とかも居た。せっかく満員なのだから、チラシ撒きか挟みが出来れば良かったのに、とちょっと思った。
演奏会(と言っていいのかな?)は、まず代表のお坊さんから、世間にはあまり馴染みのない「声明」の解説が行われた。こりゃありがたい。解説の後、いったん休憩(演奏が始まると休憩が取れないそうなので)。休憩の後、演奏が始まった。

まずは笙などの和楽器群の演奏から。テレビなんかで平安時代とかの紹介なんかがあるとバックに鳴るようなアレだ。しかし生はやっぱり違う。いい音が鳴るのだ。これだけで日常とは違う世界に引き込まれていく。曲なのか曲でないのか。適当に演奏しているような、秩序があるような。どうなっているんだろう?
そして和楽器群が演奏している中、声明を歌うお坊さん達が入場してくる。
そして声明である。こりゃまたすごい。お坊さん達の倍音がホールを支配していく。私たちがやっている発声とは違うものだが、すごい倍音が鳴る。ホーミーに近いかも知れない。そのビャーと鳴っている音だけで、ますます自分の精神が違う世界に持っていかれそうな気がする。倍音で包まれると、人は神や仏、崇高なものを感じるのだろうか?
声明は思ったよりも曲っぽい。お経よりも音楽に近いと言うか‥‥。う〜む、上手く表現できないが、音だけなら書こうと思えば西洋楽譜にもできそう。もっとも西洋楽譜にして演奏したら、違ったものになるであろうが。
お坊さん達は淡々と声明を唱える。そこそこはあるが特別大きい声でもない。しかし声の存在感で会場を支配していったのである。

声明の演奏の間に舞楽が入る。こちらも普段から馴染んでるようなものではないから、大変面白い。
まず衣装は派手。確かに和風だが、やっぱり日本もアジアの一部だなぁと思ってしまうような、アジアの香りが漂う衣装。
舞いの動きは不思議。滑らかなんだか、カクカクしてるのか。胴が動かず手足と顔がすっすっすっと動く。
一つの完成された世界、それも現実とは違った秩序を持った世界を見ているような気がした。

この辺まで来ると今自分はどこにいるのか、って気になってくる。声明と舞楽に魅了され、なにかかすかにお香のような香りが漂ってくる気がした(もしかしたらホントにお香を焚いていたかも知れないが)。
私はお坊さんの声を聞くと条件反射的に眠くなる。この時も眠くなったが、別に退屈はしていず、すごく面白い。心地よく眠くなりながらも、面白いから眠れねぇ、という妙な葛藤があったのである。ある種のトリップ状態か?

ちょっと固めの椅子でお尻が痛くなった頃、和楽器群の演奏に戻り、お坊さん達は退場。ひとしきり演奏が続いた後、暗転して演奏は終わりとなった。
終わってからも余韻がなかなか冷めず、不思議な感覚で家路についたのであった。

これがタダ(事前申込制の無料演奏会だった)とは信じられん。また面白くもヤバイものに出会った気がする。新しい世界の体験は体が活性化する。何かこの体験が自分の芸(音楽)のこやしになれば良いなぁ、とつくづく思うのであった。


(わかりにくい写真ですが、この演奏会の舞台です)

03.3.17

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