大阪コレギウム・ムジクム
マンスリー・コンサート ~音楽の花束~
《500回記念スペシャル》
J. S. バッハ/ヨハネ受難曲
連載ひとことコラム
第500回目を迎えます2025年6月のマンスリー・コンサートは、バッハ:ヨハネ受難曲をお聴きいただくスペシャル版!
作品について、あるいは意気込みについて、団員のひとことを連載コラムにてお届けしてまいります。
Nr. 8 2025. 6. 21.
チェロ:大木愛一
“ 其の日
何が起きるのか
誰も知りませんでした ”
( 私たちも……… )
Nr. 7 2025. 6. 20.
テノール:久富 望
私にとってJ.S.バッハのヨハネ受難曲は「1つの頂上」でした。技術的にも、音楽的にも、扱われているテーマとしても。
全て暗譜し、動きを付け、オペラ形式で演奏をしたのが17年前。私の見方も変わり、時代も大きく変わったと感じます。バッハが晩年「時代遅れ」とも評された記録や、バッハの音楽が100年以上注目されなかった事実は、昔の私には想像できませんでした。しかし、この17年あまりの変化を思うと、再びバッハの音楽が忘れられるような社会の変化も、音楽に携わる者次第では来てしまうかもしれない。昨今の日本・世界の様々な動きを見ながら、バッハの音楽をどのように演奏すべきか、そのために自分が作品を捉え、準備をするか、と悩む日々です。
今回、福音史家を担うことになりました。物語の語り1つ1つを丁寧に見直す中で感じるのは、匠の音の運びの中の、ある種の非連続性です。いくつもの瞬間が受難の物語を不可逆な方向に推し進めます。
全てを見通したイエスが「誰を探しているのか」と問いかけることの意味。そして「私だ」と答え、受難が始まる瞬間。
弟子の一人と疑われ「私ではない」と否認し、雄鶏の鳴き声で我に返る瞬間。ペテロのその後の全てを決めると共に、裏切りの物語が聖なる書の中に受け継がれる始まりでしょうか。
後半の「そいつじゃない!バラバを!」「十字架につけろ!」といった狂気は勿論ですが、一見連続的に見えるやり取りも、発される前と後を断ち切る力を持ち、今に重要なメッセージを与えているように思えてなりません。
たとえば、ユダヤ人の王に関係あるものに絞っても、ピラトの「あなたは王なのか?」という権力者による問い、イエスの「あなたが言っているのだ、私が王だと」、祭司たちの「カエサルの他に、我々に王はいない」といった言葉。十字架に掲げられた「ユダヤ人の王」とそれを巡るやり取り。
17年前の自分は感じられなかった様々なメッセージを噛み締めています。と同時に、バッハの強靭な知性による、骨太で緻密な音楽に受け止めてもらえる喜びを感じています。見事な音の運びを付け、ある時は繰り返し、ある時は一瞬に凝縮し...
YouTubeには素晴らしい会場での録音はたくさんあり、時間と場所を問わない手軽な楽しみがあります。そのような中、ライブにこだわって何ができるのか?50周年を迎えたOCMの、新たな挑戦を楽しみに来ていただければ嬉しく思います。
Nr. 6 2025. 6. 13.
コントラアルト:菱木直子
高校1年の秋にシュッツ合唱団に入団し、高校2年の春にBachのヨハネ受難曲を初めて歌いました。
楽器の旋律には受難の情景を表しているとみられるものが多くあることや、音の一つ一つに色々な意味が隠されている事など多くを知り、なんと緻密に計算された曲なんだろうと思いました。また、音楽ではそれぞれの登場人物の思いがドラマチックに描かれており、人間の本質にせまる場面がいくつも登場していて、宗教音楽に対して静のイメージを勝手に持っていた私には衝撃的な出会いの曲でした。
2006年のオペラ化の時は暗譜と並行して、衣装のデザインから作成までを當間先生指示のもと衣装部のメンバーが中心となり毎日衣装制作に奔走しました。その時に生まれた一つが舞台上で早替わりが出来る衣装です(民衆→兵士→民衆)。今となれば楽しかった思い出です。
それから数年、私自身は今回アルトからコントラアルトにパートが変わり、テノールパートを歌わせてもらう事になりました。
それぞれのパートの違いには日々苦戦しておりますが、歌うたびに新しい学びがあり刺激をもらいます。再びこの大曲を歌わせてもらえる事に大きな喜びを感じております。
OCMのヨハネ受難曲を是非とも多くの方々にお聴きいただけたらと思います。
皆様のご来場を心よりお待ちしております。
Nr. 5 2025. 6. 13.
アルト:吐月美貴
演奏される機会も、聴く機会も少ない作品を 今回はしかもルーテル教会の礼拝堂で、間近の席で演奏をお聴きいただく今回の演奏会。
記憶の中の2006年、いずみホールでの上演は、もともとオペラ作品かと思うほど。中央最前列のかぶりつきの席から、目の前で圧倒的な音楽と声で生々しく展開されていくのを息を呑んで全身で体感しました。
数年を経て入団後、この作品を再演することはない、と何度か聞くたびに残念なような、安堵のような感覚を覚えていました。
50年、500回の機会にこの作品に取り組む機会を得、前回演奏時の資料や今回の新たな取り組みに触れて、日々の練習で一語や一節に触れる度、毎回異なる思考や感情が去来します。
信頼と期待を背に勢いよく成長していく若手さん、燻し銀のベテランさん、ソリストの熱唱やパートやフレーズ毎に取り出して深めていく練習を聴き、楽譜と歌詞を追いながら、うっかり歌い出しを失念してしまうこともあったりします…
イエスに残酷に叫び罵倒し嘲笑するchorusと、賛美し慕い哀れみを乞うchoral
「悪役」はどちらも同じ「普通」の一人の内にあるのだろうなあ。私の内にもある暗闇。
コロナ禍を経て、浅ましさや醜悪さ、理不尽・傍若無人があからさまになる場面が増えてきたように思います。
時間的・地理的にもかけ離れた現在・此処で取り組まれ演奏され聴いていただく意義。
内向きの思いに浮遊しすぎずにハーモニーや倍音や音色に縫い込まれた背景や歴史などの諸々の厚みにも慄き感動しながら。
さて、どんな声でどんな表現で歌えるだろう。
各々日毎歌う毎の試行錯誤が続いています。
いまこの時、この場所にのみ立ち現れる「ヨハネ受難曲」を、是非会場で全身でお楽しみください。
Nr. 4 2025. 5. 31.
バス:前田悠貴
今年の1月頃、EWACHORの定期演奏会が終わった直後に、入団のお誘いを受けました。私としては、社会人になっても合唱を続けたい、もっと技術を磨きたい、お世話になった先輩方と共に、當間先生の指揮でもっと歌いたい。そんな思いで入団を決意しました。さて、入団早々、6月に演奏するヨハネ受難曲の楽譜を購入しておくように言われました。そう言って見せられた分厚い楽譜を見ながら、今年のOCMについて全く理解が及んでいなかった私は「なるほど、この曲集の中から何曲か抜粋して歌うんだな」と思いました。そうして家に帰り、YouTubeの検索欄に「ヨハネ受難曲」と入れると、2時間近い再生時間が表示されました。そこで私は自分の考えの甘さに気づきます。私はこの4月から新社会人です。入団を決意したからには、約3ヶ月で慣れない社会人生活と並行してこの大曲を、OCMの皆様とお客様方に納得していただける状態まで歌いこなさなければならない、ということです。
今でもそうですが、最初の方は特に、ヨハネ受難曲の情報量の多さと、自分の実力が団員の皆様に遠く及ばないことを実感して、あまりの道のりの険しさに目眩がしていました。しかし、ドイツ語の解説を受け、音源の視聴を重ねるうちに、背後にある物語の壮大さと構造的な面白さを少しずつ感じられるようになりました。このハイレベルな大曲に挑戦する資格が自分にはあるのだろうかと、自問自答する日々ですが、この本当に貴重な機会を与えられたからには、お客様にヨハネ受難曲の魅力を少しでも伝えるため、一つ一つの音に神経が通うように本番まで研鑽を積みたいと思います。
このように、私にとって非常に大きな挑戦であるヨハネ受難曲ですが、いつも頼もしい先輩方や先生方にとってもまた大きな挑戦なのだろうと思います。一団員なだけでなく、OCMの一ファンである私としても、是非多くのお客様にその一部始終を確かめていただきたいです。
Nr. 3 2025. 5. 30.
テノール:近藤雪斗
今年の4月のマンスリーコンサートでは、イエスの受難を題材としたH.シュッツの「十字架上の七つの言葉」を演奏しました。その時、イエスのパートを歌わせていただいたことはとても幸いなことだったと思います。信仰というより、一人の人間としてのイエスのことを考え、想像しました。怒りや愛の言葉で多くの民衆を惹きつけた若者の、最後に母や仲間に向けた眼差しが感じられるようでした。
その時の特別な感情は今回のヨハネ受難曲の演奏にも活かされると思います。
バッハのヨハネ受難曲、私にとっては今回が初挑戦です。人々を惹きつけた影響力のある人間が処刑されるというただ事ではない状況がドラマチックでエネルギッシュに描かれるとともに、今も昔も変わらない人の感情、大切にされるべき心が描かれている、というように感じています。
私はテノールなのですが、その「エネルギー」「感情」の部分でテノールはとても大きな役割を担っていると思います。
バッハの意図を汲み取ったテノールらしい演奏をしようという気合は…あるのですが、とてつもなく難しく、その道は困難です。相当なテクニックと集中力が必要で、少しでも「あっ」と思った時にはもう置いていかれる、そんな感覚です。
ですが本当に幸せなことに、この団には様々な経験を積み重ねてきた先輩方がいます。これまでも作品の内容や舞台背景などたくさんの事を勉強会などを通じて学ばせていただきました。皆さんからもっと多くのことを学び、この作品のすごいところを余す所なく披露できるよう練習に励みます。
今回の演奏会も私にとって特別な経験になると思います。たくさんのお客様に聴いていただけたらと思います。
Nr. 2 2025. 5. 23.
ソプラノ:横畑真季
昨年12月のマンスリー・コンサートの打ち上げで「12月にロ短調ミサを演奏するのであれば、それまでにヨハネ受難曲は演奏しておかなければ!」と盛り上がり決まったヨハネ受難曲の演奏。決まった時には、団員の方から時々聞いていたあのバッハの「ヨハネ受難曲」を當間先生の元で演奏できることをただ嬉しく思いました。
楽譜を入手し、2007年にオペラ化された東京公演の録音を聞いていくうち、当時の迫真の演奏に圧倒されるとともに「この曲を、動きながら、暗譜で…?」と、正直に言うと、背筋が寒くなるような感覚を覚えました。
対訳を読んだり練習をして内容が分かるにつれ、曲の面白さ、楽しさも感じられるようになってきました。和音の移り変わりやテーマによって表される場面・人物の心の動きに本当に魅了されます。
イエスを揶揄する兵士ら、イエスを十字架にかけろ!と無責任に騒ぎ立てる民衆たち、民衆の騒ぎに押され刑を執行してしまうピラト…それぞれの行動を引き起こしている心情は、現代の私たちにも十分あてはまるものではないだろうか…その中でバッハが描こうとしたイエスの深い愛情もまた、普遍的に人間の根底に必要なことを示されているように感じます。
一度の演奏で到底すべてを理解できるものではないと思いますが、それでも本番までにバッハの音楽に少しでも近づき、音楽と一体となってお客さまに「ヨハネ受難曲」の魅力を伝えられるよう、頑張りたいと思います。
本番では会場であるルーテル大阪教会の空間を余さず用いて、様々な編成でのアンサンブルをお届けできることと思います。
OCMとしては実に18年ぶりの演奏。當間のもと、50年の歩みの中で培ってきた力強く心に響く音楽を、純正のハーモニーで教会いっぱいに響かせたいと思います。今のOCMが表現するバッハ「ヨハネ受難曲」を、多くの皆様にお楽しみいただけましたら幸いです。
Nr. 1 2025. 4. 19.
ソプラノ:福島瑞貴
ヨハネ受難曲を歌うのは今回が初めてです。演奏が決まった時は周りの方のざわめきにキョトンとしているだけでしたが、最初に楽譜を手にした時に、その道のりの険しさを実感しました。
練習が始まった当初は、ただ楽譜を追うのに必死で、曲を楽しむ余裕など全くありませんでした。音程が複雑に変化していくメリスマに速いリズム、そこにドイツ語の発音が合わさるので、練習後は頭がパンク状態でした。
練習を数回重ねて曲の内容が少し理解できるようになってから、過去のオペラ形式の演奏を通しで視聴しました。その迫力に圧倒されると同時に、曲の魅力に深く惹き込まれていきました。また、あれほど長い曲を暗譜で歌い上げる先輩たちの姿に感銘を受けました。
これまでも何度かバッハの作品を歌ってきましたが、楽譜をなぞるのに精一杯で、完全燃焼できないことも多々ありました。しかし、今回はやり切れない思いを残さぬように、先輩たちのように全て暗譜する勢いで曲に取り組もうと思います。
心に響き渡るような芯のある声でドラマティックな表現をしながら、同時に悲しみや希望を浮き彫りにする美しいハーモニーで教会全体を包み込む。そんな風に歌えたらバッハの作品をさらに好きになれるのかなと思います。まだ練習についていくのに必死ですが、本番でお客様が心から感動するような演奏ができるよう精進していきたいです。