日々つれづれ
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2007年10月1日(月)
さすがに

今朝は、
起きるのに多少の気合いが必要だった。
体の様子はいかにも、
演奏会翌日という感じ。

ただ、思ったより眠れているので、
予想していたより、
体は元気だ。

仕事は、
来客もあってバタバタしていた。
職場を出たのも、
午後8時30分を回っていたし、
演奏会翌日としては
なかなかハードな1日だった。

2007年10月2日(火)
まさか といふこと

その兆しを
見逃してはいけなかつたのか。

今となつては、
もう、遲いのかも知れない。
いや、
もうすでに、
限界だつたのかも知れない。

小さな變化は
その兆しなのか
氣のせゐなのか
見分けがつかない。

自分にやつてきた
大きな波の中で、
その小さな變化を
をかしい、と思ふ自分と
まさか、と思ふ自分があつた。

人を信用することと
辛抱強く見續けると言ふことは
矛盾しないのに
信用することで
見續ける力が弱くなつたのか?

ちよつとした變化は
いつしか、
大きな變化になつてしまつた。

そして、
それが表面化したとき
僕に對して
そのことを隱したのだ。

僕は隱すことなく
正直に
自分の中に起こつた
小さな兆しを
晒してきたのにもかゝはらず。

それは、事態が、
後戻り出來ない方向へ
向かつてゐることを意味してゐた。

その時の僕には
見る餘裕が
ほとんど無かつた。

やがて、
僕の聲も屆かなくなつた。

2007年10月4日(木)
今日もカンテ

また、寄り道した。

すっかり紅茶好きに
なってしまった。

中津店が好きな理由は
きっと天井の高さだろうなぁ。

調べ物したり
書き物をするのにも
適度に静かなので
これからも、
寄り道することになるだろう。

2007年10月5日(金)
途中経過

汗を以前に比べると
かかなくなった。
汗臭いのも緩和か。

紺のスタンドカラー、
一番上のボタンが
掛けられるようになった。

首周りも、細くなりつつあるようだ。

ズボンは、1サイズ下のをはいている。
ベルトの穴はまもなく、
もう一つ縮まりそう。

筋肉のトラブルは、今のところ解決。
ふくらはぎは、治るのに
なんだかんだで、ひと月かかった。
背面痛は、1週間で、
しかし未だに、冷やすと、
痛みがぶり返しそう。

というわけで、
腕立てと腹筋をようやく始める。

今までも、テレビ見ている間は
5キロの鉄アレイを
ブンブン振り回していた。
それは、継続中。

足首に750グラムのウェイトをつけて
日中過ごすのも継続中。

2007年10月5日(金)
いやぁ〜終わらん

予想通り、この時間。
午後8時半過ぎ。

明日録音なのに・・・。

月曜は、何だかんだで
時間かかりそう。

職員への説明は
予想通り、もめた。

しかし、僕はもともと
こだわらない性格なので、
理解できていないんだけれど
なんで、あんな所に
こだわるかな。

比較的どうでも良いと思うんだが。

とにかく、今度のイベントは
お客さんが喜んだら
それでええと
僕は思うけどなぁ。

まぁ、どっちでもええけど。

あきれると言うより
そこが気になるんやという
驚きかな。
予想外です。まったく。

2007年10月6日(土)
夏と秋の間

071006.jpg

秋はもうすぐなんだろふ。

蒼空(そら)では
夏と秋が混ざりあってゐる。

2007年10月7日(日)
録音終了

作曲家の千原英喜さんも
立ち会っての録音。

なかなか疲れました。

その後、簡単な打ち上げ。

最近、
お酒で酔えるようになりました。

実験の成果ですな。
以前は、少しでも酒を飲むと
気分が悪くなってましたから。

それだけ、
脂肪肝がひどかったのでしょう。

先日の健康診断で
数値が良くなっていましたが
その結果で
お酒で酔えるようになったわけで。
量は相変わらず無理ですが。

ようやく、10月ですなぁ。

2007年10月8日(月)
さて、職場へ

予定通り職場へ。

天気は良くない。

でもその分、明日は晴れそうだ。

とにかく、明日は
最後の交流会に、
お客さんが入るまで
気が抜けない。

出席者管理の宿命だ。

結局、講演会は700人近くになった。

これで、山は越えるかな。

2007年10月8日(月)
ようやく終了

まるまる12時間。

僕は人に仕事を振るのが下手な分
どうしても、時間がかかってしまう。

さぁ、帰るとするか。

2007年10月10日(水)
疲れがピーク

昨日の周年イベントの後
練習に行ったとき
少しフラフラしていましたが
夕食を取っていないせいかな
と思っていました。

で、今日(もう、昨日)、
朝は元気に行って
仕事を始めました。

が、夕方頃になると
一気に来ました。
疲れが。

実際の参加人数集計が出来た直後
フラフラになりました。

緊張が一気に解けてしまいました。

今日も練習に行きましたが
フラフラでした。

明日は、代休ですが
大事を取って
休養に徹した方が良い感じです。

2007年10月11日(木)
身近な未知の世界

昨日の日記でも書いたとおり
今日は、休日出勤の
代休を取った。

目が覚めたら昼頃なんて
ずいぶん久しぶりのような気がする。

起きてもしばらくは
動けなかった。

そんなこんなで
夕方に出かけることになった。

学校がおわって
遊んでいる子供達に出くわした。

このまもなく
日が暮れるかという時間帯
いつも通る道が
違う場所のように感じた。

よく考えたら、
平日のこんな時間に
家の周りにいたことは
なかったかもしれない。

本当に休むために
平日に休んだことなど
ここに住むようになって
一度もなかったのかも知れない。

遊んでいる子供達
夕食の買い物帰りであろう
お母さんたち。
いつも僕が見ている風景には
無いものが
いっぱいあった。

遊んでいる子供達を見て
時間が逆戻りしたような
不思議な感覚に襲われた。

僕が子供の頃
過ごした場所ではないけれど
自分が子供時代を
ここで過ごしたような
そんな感覚だ。

ここのところ
忙しかったし
大変だったかもと
改めて思った。

2007年10月14日(日)
この体に慣れていない

気温が下がってきた。

どうも、風邪をひいたようだ。

この体に慣れていないのか
気温の変化に
対応しきれていない。

う〜〜ん、困った。
いつもの格好でいると
頭では、これ良いと思っていても
体が、そうじゃないと言ってくる。

困った。

普通の人は
こんな不便を日頃感じているのか?

どちらにしても
これから冬にかけて注意しないと。

2007年10月15日(月)
半年ぶりに阪上医院へ

昨日の晩は
おそらく熱があつたと思はれ
今朝も、寒いんだか暑いんだか
よく分からない体調だつた。

鼻をかむと
血が混じつてゐたので
仕事前に、阪上医院へ行くことにした。

先生曰く
今回のは少し酷いさうだが
早めに行つたおかげで
声帯まではやられてゐない様子。

本番まで日がないので
早く回復せねば。

仕事も周年事業で
ペンディングしまくつてゐた作業を
早く進めないと。

とにかく、休んでゐる暇は
ないのである。

2007年10月17日(水)
ガス欠?

先週の90周年事業が
終わって以来
いまいちエンジンがかかりません。

土曜から日曜にかけて風邪をひき
完治にはもう少しかかりそう。

置き去りにしていた
いろんな事を回し始めないと
いかんのですが・・・。

体調もおかしいのか
体重が2〜3キロ前後
乱高下しています。

以前はデータを取っていませんでしたから
実際は、体調が崩れたとき
こんな感じなのかもしれません。

2007年10月17日(水)
今日の名言

『大変な仕事だと思っても、まずとりかかってみなさい。仕事に手をつけた、それで半分の仕事は終わってしまったのです』
(アウソニウス 帝政期ローマの著述家)


そうですな。

何にしても
手をつけないと始まりませぬ。

無様でもいいから
何かやろう。

2007年10月20日(土)
合宿へ

久々のマキノへ。

体調は回復傾向にある。
汗をかかなくなったとはいえ
汗をほとんどかかなったこの1週間は
やはりおかしかったようで。

体の中にある種火のようなものが
消えかかっていたようだ。

季節の変化に対して、
体が全く対抗していない状態は
やはり、僕にとっては普通ではなかったようだ。

その意味から行くと、
体の中の火は無事、点火した。

体との折り合いをつけていく作業は
まだ続きそうだ。

2007年10月22日(月)
喉の調子

合宿中、調子が悪かった。

帰りには、少し声がガラガラ気味に。
今朝は、ファルセットがあわず。

声帯に何かのっかている様な感じ。

医者に行くとします。
去年の今頃に比べれば
余裕がありますので。

体の変化のおかげか
今の季節が
寒く感じるようになってしまいました。

去年までは
ちょうど良かったんだけどなぁ。

2007年10月22日(月)
というわけで

昼から休んで
幾つかの用事をすませたあと
阪上さんに行きました。

声帯は腫れているようです。
今日明日くらいは喋りなや
と言われました。

2007年10月24日(水)
怪我の功名?

体調管理が
今回に関して言うと
うまくいっていない。

本番この直前に
歌えない練習なんて
いつ以来だろうか?

そのおかげで、
久しぶりに室内の演奏が
生で聞けたけれど。

千原さんの
「文語詩稿<祭日>
混声合唱とチェロ、ピアノ、パーカッションのために」
の合わせが昨日の練習であったんだけれど
本当に面白くて良い曲だ。

作曲家 千原英喜の曲は
世界に向けて、日本人であることを
ハッキリとアピールできる
日本人の持っている
精神性が、非常に良く表れている
ここ最近の曲には
その色が更に濃くなっているのを
僕は感じてしまう。

わかりやすく言うなら
曲を聴けば、
あぁ、これは日本人が作曲した
と分かる感じなのだ。

日本人以外には作れない
そんな感じだ。

今後、演奏旅行がいつあるのか
分からないけれど
千原さんの曲は
いっぱい持って行きたいなぁ
そう、思いました。

2007年10月25日(木)
宮沢賢治と科学史

0.序

そもそものきっかけは、昔、柴田南雄の「自然について」を
演奏した事でした。

その中に、春と修羅の序を歌う部分がありました。

内容は難解ですが、しかし書かれてある内容は
「科学」が賢治を通して、「詩」という媒体に翻訳されたような
そんな内容でした。

賢治のいくつかの作品の中にも
当時の科学技術を盛り込んだであろう言葉が
所々に見られます。

その時から漠然と、彼の生きた時代の科学に
興味があったのでした。

すべてを網羅できるわけではありませんが
当時、賢治が何を知り、どこまで分かっていたのか
科学史を手がかりに書いていきたいと思います。



1.科学のあけぼの

結構遠い昔、自然に対して人はわずかなことしか知りませんでした。

でも、程なくして、自然を観察し、分かったことから
自然を理解していこうという人々が現れました。

空に見える星や月、太陽は、
この大地を中心に回っていると考えました。
自分たちが立っている大地の姿も、はじめは
平たい円盤で、海の果てに行ったら
それ以上は行けないと考えていました。

やがて、地球が丸いとわかり、
月食、日食などは神々の悪戯ではなく、
月や地球の影が引き起こしていると知るようになります。

この世界を構成している物質に関しても
いろいろな説が出てきました。

すべては水から出来ているという人がいたり
空気だと主張する人もいました。
この時代に、自然科学に貢献した人で有名なのは
アリストテレス(B.C.384-322)です。
彼は土、水、空気、火、エーテルの5元素と主張しました。

いろいろな主張をする人の中には、非常に小さいものが集まって
我々の体を始め、すべてのものが出来ていると
主張する人もいました。最初の原子論です。
ちなみにデモクリトス(B.C.460-370)という人です。

しかし、人の五感のみでとらえることの出来る範囲は
どうしても限られてしまいます。

新たな道具を手に入れるまで、
人は新しい事実を手に入れることが出来ませんでした。

ここまでが紀元前のお話です。



2.天動説からニュートンまで

15世紀半ばにドイツのクーテンベルグ(1390-1468)が
印刷技術を発明します。
1454年のことです。
最初に印刷されたのは聖書でした。
多くの人に考えを伝える手段という観点から
この発明は後々大きな意味を持ちます。

空を見上げることをやめなかった人々の中で
宇宙の新しい姿が提唱されるようになりました。
地球は宇宙の中心ではないという主張、地動説です。
言ったのは、コペルニクス(1473-1543)です。
その説は本としても印刷されました。
16世紀の半ば1543年のことです。
(シュッツが生まれるちょっと前ですなぁ)

しかし、この主張はしばらくの間
公に言うことははばかられる時代がしばらく続きます。
本は残念ながら、禁書扱いになりました。

この時まで、人々は自分の目で空を見続けていました。

17世紀の初め、1608年にオランダの眼鏡職人が
望遠鏡を発明します。戦争に有利だったため
製法は秘密にされましたが、あっという間に広まり、
腕に覚えのある人が自分で作ってしまい、
秘密でも何でもなくなってしまいました。

その腕に覚えのある人の中の一人に、ある天才がいました。
ご存じ、ガリレオ(1564-1642)です。
望遠鏡はもともとは遠くの景色を近くに見るために作られ
腕に覚えのあった多くの人は、当然そういう使い方をしました。

しかし、そこはガリレオさん、望遠鏡を空に向けたのです。

より詳しく空を観察した結果、やっぱり天動説はおかしいと
地動説の方がどうやら正解じゃないかと、
気がついてしまいました。

イタリア語で本を出しましたが、えらい問題になって
発言を撤回させられた上、本も禁書扱いになってしまいました。
17世紀前半、もうすぐバッハが生まれるであろう1633年のことです。

ただ、印刷して世に出た本を全部回収するのは無理なわけで
あかんと言われたら、
捨てるのが惜しくなり、なおさら読みたくなるのも人情です。
禁書と言われつつも、コペルニクスの主張やガリレオの主張は
後世に影響を与えました。(本は多くの人に読まれたということ)

そんな中、ガリレイの亡くなった年に一人の天才が産声を上げました。
アイザック・ニュートン(1642-1727)です。

万有引力、運動の3法則、光の粒子説、微積分法の開発など
彼の業績は偉大なものばかりです。
これらは17世紀の後半、1687年に発行された
「自然哲学の諸原理(プリンキピア)」に集約されます。
(バッハ2歳のときですね)
このことは、科学革命とまで言われています。

しかし、一体彼の何が凄かったか?

それまでの科学は、
地球や宇宙をはじめとする自然が【どういう姿をしているのか】
多くの知識と情報を与えてくれました。
数多くの先人達が残したものです。

それに対し、これ以後の科学は
地球や宇宙をはじめとする自然が【どうしてそういう姿をしているのか】
説明出来るようになったのです。

一見複雑に見える現象の裏に、単純な法則が隠されていて
それを表現することが出来るようになったのです。

たとえば、ガリレイは重さの異なる物体の落ちる速度が一定であることは
実験により示せましたが、
それが【どうしてそうなるのか?】は説明できませんでした。

でもニュートンが考え出した道具(理論)を使えば
簡単に説明できるようになったのです。



3.ニュートンから賢治生誕まで

人々は非常に優れた道具を手に入れました。

一つは、自然に潜む法則を、数式で表せるようになったこと。
もう一つは、光のスペクトルです。

これ以後、科学の発達は堰を切ったように
その速度を上げていきます。

地動説を押さえ込むことは不可能になっていきました。

そして産業革命が起こった18世紀1700年代を迎えます。

電気現象の解明も始まりました。
ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)が避雷針を発明したのは
18世紀中頃、1752年のことです。

その6年後1758年には、ハレー(1656-1742)が予言したとおり
彗星が空に現れ、大騒ぎになりました。
(これ以後ハレー彗星と呼ばれます)

彗星、小惑星、衛星、星雲の発見ラッシュが始まります。

(ベートーヴェン、モーツアルト、ハイドンなんかはこのへん)

いよいよ賢治の生まれた19世紀、1800年代を迎えます。
光のスペクトルを用いることにより、
元素の発見ラッシュも始まります。

化石の発見から地質学も発達の歩みを始めます。

19世紀初め、1831年に発電機が発明され、電気の利用が
一気に進むことになります。
(ファラデーの実験が元になっています)

古生物の生きた時代の最初をカンブリア紀と名付けられたのも
このころです。
恐竜という呼び名も、このころに付けられました。

19世紀中頃1855年には、ファラデー(1791-1867)の実験によって
明らかになった電磁場現象をマクスウェル(1831-1879)が数式化しました。

翌年、1856年ネアンデルタール人の化石の発見。

その3年後1859年、ダーウィン(1809-1882)により「種の起源」が出版され
一大センセーションを巻き起こします。

やがて、スペクトルの利用方法が発達することにより
遠く離れた星がどのような元素で構成されているかも
分かるようになってきます。1863年のことです。

これ以後、目立ったものを挙げると・・

1866年 ダイナマイトの発明

1867年 明治維新

1868年 クロマニョン人の化石の発見
1872年 日本で鉄道が開通
1873年 人間の細胞分裂の様子が初めて観察
1875年 ベル(1847-1922)が電話を発明
1876年 ガスを用いた内燃機関の発明
1877年 アメリカ人の動物学者モースにより日本に進化論が紹介される
1879年 エジソン(1847-1931)により白熱電球が発明される

1885年 ダイムラーとベンツ(1844-1929)により最初の自動車が作られる
1888年 ヘルツ(1857-1894)がマクスウェルにより予言されていた電磁波を発見

1895年 レントゲン(1845-1923)がX線を発見
    映画が発明される
1896年 ベクレル(1852-1908)により放射線が発見される

そして、この年1896年の8月27日 宮沢賢治が生まれます。
この年の暮れにノーベル(1833-1896)が亡くなって、ノーベル賞が
設立されています。

こうして、ざぁーっと見ていくと、
賢治は科学技術が未来と希望に満ちあふれていた時代に
生を受けた感じがします。



4.賢治とその時代の科学技術、そして

科学の世界では
ニュートンの運動法則、光のスペクトルの発見などの業績が
多大な影響と恩恵をもたらしていました。

以後、賢治が生まれてからの出来事ですが、もう少し細かく見ていきます。
()内は賢治の年齢【】は賢治のトピック

1897年( 1歳)キュリー(1867-1934)がウランから放射線が出ていることを発見
       ラザフォード(1871-1937)が様々な種類の放射線を発見
1898年( 3歳)キュリー夫妻がラジウム、ポロニウムを発見
1901年( 5歳)イギリスからカナダへ最初の無線信号を送る実験成功
       第1回ノーベル賞がレントゲンに贈られる
1903年( 7歳)ライト兄弟(1871-1948弟 1867-1912兄)が
       人類初の動力飛行に成功
1905年( 9歳)アインシュタイン(1879-1955)が特殊相対性理論を発表する
1906年(10歳)天の川の星分布図が作成され、銀河の直径、厚みなどが
       明らかになる
1908年(12歳)原子の直径が計算で求められる
       ドイツの物理学者ガイガー(1882-1945)が放射線検出器を発明
1909年(13歳)地殻とマントルの境界面が発見される
1911年(15歳)原子の構造が解明された(ラザフォード)
1912年(16歳)大陸移動説が唱えられる

1912年 大正元年

1913年(17歳)ボーア(1885-1962)が原子の構造に関して革新的な理論を発表
1915年(19歳)遺伝子が染色体の中にあることが証明される
1916年(20歳)アインシュタインが一般相対性理論を発表
1918年(22歳)天の川の正しい大きさを測定、太陽の位置が分かる
       【このころから童話の創作始まる】
1921年(25歳)【花巻農学校の教師になる】
1922年(26歳)【11月トシ永眠】
       11月アインシュタイン来日、相対性理論ブームに
1923年(27歳)恐竜の卵の化石が発見される
1924年(28歳)【銀河鉄道の夜初稿、種山が原もこのころ】
       【春と修羅第1集出版】

1925年 昭和元年 日本で最初のラジオ放送始まる

1929年(33歳)観測結果から宇宙が膨張していることが確認
1930年(34歳)冥王星が発見される
1931年(35歳)宇宙から降ってくる電波を捉えることに成功
1932年(36歳)中性子が発見され、原子核の構造が明らかになる
1933年(37歳)【9月23日賢治永眠】

ここに挙げたのは、科学技術の業績のごく一部です。

ここから言えることは、賢治の生きていた時代に、
ニュートンが17世紀にもたらした科学革命と
同等の変革が起きていたと言うことです。

ニュートンがもたらした恩恵で、人類は
太陽系のことと、銀河系の一部のことを理解し
物質を構成するものが多くあることまでは理解しました。
ここまでが賢治生誕までです。

そして、アインシュタインの出現により、賢治が生きている間に
人類は太陽系を飛び出し、遙か彼方の宇宙へ、宇宙の神秘に触れ、
物質を構成する要素へ深く入り込み、世界を構成する秘密に触れることが
出来るようになりました。

しかし、この時代の人々は「科学が全人類を滅亡させることになる」
なんてことは、まだ思いもよらないことだったんです。

科学に暗い影を落とす、核分裂の発見は、賢治の死から5年後
1938年のことでした。

つまり、賢治は科学の輝く部分だけを見て、
この世を去っていったんでしょう。
原爆が落とされたのは、賢治没後わずか12年後の1945年なわけですから。

賢治がもう少し長生きして、科学の闇の部分を目の当たりにしていたら
どのような作品を生み出したのだろう?なんてことを考えてしまいます。

ここで、長々と書いてきたことは、科学史のごくごく一部ですし
世界史、日本史には触れていません。
科学技術の発達が貧富の差や、戦争をもたらしたことについても
ほとんど触れていません。
もし、興味がわきましたら、その方向から調べてみるのも
面白いかも知れませんね。

お付き合いありがとうございました。

●参考文献
1)アイザック・アシモフ著 小山慶太・輪湖 博共訳 
  コンパクトサイズ アイザック・アシモフの科学と発見の年表,丸善(株)
  (1996)
2)アイリニック・ニュート著 猪苗代英徳訳
  世界のたね−真理を追い求める科学の物語−,NHK出版(1999)
3)花巻市ホームページ 宮沢賢治 http://www.city.hanamaki.iwate.jp/kenji/

2007年10月25日(木)
これらの原稿は・・・

宮沢賢治シリーズの演奏会用(その1その2)にと
僕の方で、独自に調べ、まとめたものです。

仕事でも、職場の年表を作りました。
その時に、世界や日本のトピックの中に
科学史も入れた方が良いかなと思い
色々書籍を買っていたのでした。

本当は先月の
邦人の演奏会に間に合わせたかったのですが
調べる量が思ったより膨大になったのと
仕事が大変だったのもあり
遅れに遅れてしまいました。

ただ、ここにかけた時間は
自分の仕事を見直す
良いきっかけになったように思います。

このように科学史を真剣に追いかけたことは
今までありませんでしたから。

理系の学生さんなんか
特別講義でも良いから
科学史を学ぶ機会があってもいいのかな
と思いました。

昔、子供の頃に
学研のひみつシリーズに夢中になっていたのを
思い出しました。
「宇宙のひみつ(第1巻)」には
相対性理論の事が書いてあったんですよね。

あのころは漫画はそれしかなかったし。

2007年10月26日(金)
暑いんだか寒いんだか

夕刻になってから外へ。

何でしょう?この気候は。
かなり中途半端ですなあ。

少し前であれば、汗だくかなあ。
とにかく、変な天気だ。

明日は晴れるかなあ。

2007年10月27日(土)
終わった〜

なんとか、無事終わりました。

今回は久しぶりに大変なステージでしたねえ。

声はだんだん回復していきました。

ひとまず、明日だけゆっくりするとします。

2007年10月28日(日)
人生わからないもんだ

昨日の演奏会は無事終わったと思う。

お客として聴きたかったところだけれど
合唱団員で居る限りでは
それもかなわないわけで。

でも、まさか自分の人生の中で
常田富士男さんに
直にお会いできる機会に恵まれるとは
思っても見なかった。

子供の頃、
土曜日の夜は
まんが日本昔ばなしから始まり
クイズダービー
8時だよ全員集合
そしてGメン75
と言うのが定番でした。

その日本昔ばなしのナレーションやっていた
常田富士男さんですよ。

ほんと、なにがあるか分からないなぁ
と思いました。

結局3次会までご一緒できましたし。

不思議だったのは
一緒にいて、
全く違和感がなかったことでしょうか。

共演するのは初めてなんですけどねぇ。
不思議な人です。

2007年10月29日(月)
去年の今頃は・・・・

マタイ受難曲でしたねぇ。

去年に比べると、
ハードさは控えめかもしれません。
(来週に学会を控えてはいますが)

生活上の変化の度合いは
去年の比ではないですね。

おそらく、
人生における
折り返し地点はとうに
過ぎたと思っています。

死ぬまでに
もう半分あるかと思うと
わくわくしますねぇ。

ここまでも、
たいがいでしたから。

一人の人間が
その生涯で
どれだけのことを体験できるか
考えたとき
自分は、恵まれている方かもしれない
と最近思います。

退屈に思ったことは
あまりないように思うので。

2007年10月30日(火)
持続性

とぎれないように留意していたつもりでも
やはり、今回のような本番があると
とぎれるな。

英語のプレゼンに向けて
資料を作成しているけれど
なかなか、英語の頭にならない。
っていうか、
もともとそんなものはないか・・・(汗)。

一昔前に比べれば
便利なツール、
親切な書籍があふれているので
その気になれば
どうにでもなるはずなのだ。

後は、本人のやる気か・・・。

やる気はあるけど、
疲れてるな。さすがに。

さ、がんばろ。

2007年10月31日(水)
結局、時間が無いのか・・・

いや、
配分と計画に問題があるか。
まだ。

平行して少しづつやらないと
今回のようになる。

なかなか難しい。

スケジュールと
タスクの管理をしてくれる
秘書って、本当に必要かもと
思ったりする。

マネージャーかなぁ。

一人で全部こなすのには限界があるなぁ。
と最近思う。

そういう、専業でなくても
仕事や、スケジュールに関して
話が出来る人って
居ると、ずいぶん助かるんじゃないだろうかと
思う今日この頃。

まぁ、叶わぬ夢ですが。

さぁ、もうひとがんばりですな。

2007年10月31日(水)
練習その1

終わり。

英語厳しいー。

とりあえず、色々指摘していただく。

修正より追加が多い気がするのは
きっと、気のせいだろう。

次は明後日だ。

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