日々つれづれ
バックナンバー

[先月] [目次] [来月]

2011年5月7日(土)
三日で六本

はしご映画。

たまっていた欲求が
一気に放出した感じ。

木曜日は、夕方から夜に「ザ・ライト」と「阪急電車」
金曜日は朝から昼過ぎに「イリュージョニスト」と「まほろ駅前多田便利軒」
今日は「英国王のスピーチ」と「岳」

どれも良かったです。
こうやってみると
邦画、洋画半々ですな。

水曜日は旅行疲れか
ほとんど寝ていました。

木曜日も、そうなりかけたので
いかんと思い、映画を見ようと思い立ち
友人のつぶやきを見て
最初の映画を決めました。「ザ・ライト」

映画館(梅田ブルク7)の客席で
始まりを待つ間に
iPadで次の映画を予約。「阪急電車」

見終わった後、次の映画へ。(TOHOシネマズ 梅田)

金曜日は、預けていたステージ衣装を
事務所へ取りに行く必要があったので、
朝一にスカイビル3階の映画館へ(シネ・リーブル梅田)
「イリュージョニスト」
時刻を見ると終演時間と開演時間5分差で
上の階(梅田ガーデンシネマ)で始まる映画あり。

映画終わりで一つ上に駆け上がり
もう一本を見る。「まほろ駅前多田便利軒」

そのまま自転車で事務所へ。
衣装をピックアップした後、
本町の紀伊国屋へ。
昨日見た「阪急電車」の原作を購入。
フラフラ走っていると靫公園の緑が目に入った。
思い立って靫公園隣のカンテへ。
ここで、「阪急電車」の原作を読破。

今日も何か見ようと(もう、歯止めがきかなくなっている)
前の晩にインターネットで
1本予約「英国王のスピーチ」。
(大阪ステーションシティシネマ)

今朝、家を出る前に2本目を予約。「岳」
(同、大阪ステーションシティシネマ)
新しくなった大阪駅の11階へ。
風の広場が目の前。
12の映画館が、同じ階にある。
入り口の人だかりが想像できないほど
映画館は人が少ない。

最初の映画「英国王のスピーチ」が終了後、
次の映画「岳」まで15分。
同じ階なので移動も楽ちん。
しかし、ここに来てロビーには、えらい数の人。

終了後、大阪ステーションシティの風の広場へ。
そのまま天空の農園。
今までに無い、気持ちの良い景色。
デートにはもってこいだろう。

お互いを敬語で呼び合う、
若いカップルもちらほらいた。
そういや、時期的には、そんなもんだ。

その後、梅田の紀伊国屋で
三谷幸喜さんのエッセイ新刊を発見。
他含め計3冊購入。
中津のカンテへ。
三谷さんの本を読破後、帰宅。

そんなゴールデンウィーク後半。

2011年5月8日(日)
映画放談 「ザ・ライト」

実話を元にした
エクソシストを描いた映画。

導入部から、
カット割りに感動していた。
勉強になるのだ。
別に映画を撮る予定は無いけれど
カット割りの妙とはこのことだと思った。

悪魔に取り憑かれた対象者の描き方も
背景の変化も
技術の発達で、
ものすごく自然(?)に。
特に最終場面での悪魔払いに成功し
対象者から悪魔が去って行く表現は
今の技術がなければ表現できなかったろう。

物語は、主人公である若きアメリカの神学生の
成長とエクソシストへとなっていく過程を軸として進む。
神学生であるにもかかわらず神の存在に疑問を抱く。
そして、悪魔払いそのものに疑問の目を向ける。

真実とは何か?
事実とは何か?
神とは、悪魔とは?

信仰とは?

僕は終盤で唸ってしまいました。
実に興味深い映画でした。

2011年5月8日(日)
映画放談 「阪急電車」

あとでパンフレットを見たら
監督さんも脚本家さんも
好きな人ばかりだった。

特に脚本家は「ちゅらさん」の
岡田惠和さん。

直後に原作を読むと
台詞回しは、ほとんどそのまま採用されているのに
驚いた。

その原作に、実に自然に台詞や
演出で合間を埋めていることにも
改めて驚く。

原作にない部分で気に入ったのは
おばあちゃんの時江の
回想シーン。
現在の時江を宮本信子さん
若い時の時江を黒川芽以さんが演じていた。
とても、よく似ていて、仕草なども
きっと演出も合わせてあるんだろうけど
違和感のなさに一人で感動していた。

他の登場人物のキャスティングも
大成功だったと思う。

それと
原作も映画も、子役の使い方が
絶妙だと思った。

主に阪急電車の車内での
出来事を描いているのだけれど
赤の他人との接点は、
何もなければ難しい。

恋する者同士は
自然と出会いの会話のきっかけが生まれるけれど
そうでない場面は、
そうはいかない。

そこで時江の孫、亜実が、
その役割を発揮する。

その流れが自然で、好ましく
久々に用もないのに今津線に
乗ろうかという気分になった。

2011年5月8日(日)
映画放談 「イリュージョニスト」

イギリス、フランス製のアニメーション。

年老いた手品師と、
その旅回りの途中で、
彼に付いてきた貧しい娘との
つかの間の交流を描いた作品。

絵が美しく、
そこに流れる雰囲気が懐かしい。

派手な演出があるわけでもない。
ただ淡々と日常が流れていく。

時に、エンターテイメントに関わる者の
悲哀を描いたところは
少し驚いた。
アニメとはいえ、ファンタジーではないのだ。

生きる、生活していくということを
必要とされることと
いずれ必要とされなくなるということ
そのコントラストが
くっきりと描かれた作品だった。

似た空気感は、「オネアミスの翼」で感じた。
好きなアニメ作品の一つになるだろう。

2011年5月11日(水)
41歳の春だから・・・・

昨日、いきなりこのフレーズが
頭の中に響いた。

元祖天才バカボンのエンディング曲の一節。

たぶん小学生のころに見ていて
おぉ!バカボンのパパは
41歳やったんか
と、得した様な、妙に納得したような
そんな気分になったのを覚えている。

今から30年以上前、
自分が、その歌詞に歌われた年になるとは。

小学生だった自分は、
41歳なんて想像もできなかった。
ノストラダムスが騒がれたこともあって
1999年7月以降の
30歳を超えた自分は
あるかないか分からなかったのだ。

でも、いま僕は41歳の春を迎えている。
気が付いてよかった、
もう少しで41歳の夏になるところだった。
あぶない、あぶない。

その頃、想像だにできなかった
人生を歩んでいる。

とうに人生の折り返し地点は過ぎているが、
今後どうなっていくんだろうと、
少し考えつつ、
味わう41歳の春であった。

これでいいのだ。

2011年5月13日(金)
年齢に留意する

僕の場合は見た目年齢。

昔から、歳よりは老けて見られていた。
そんなことは、僕にとって、
あまりにも日常だったため、
もはや、気にしなくなっていた。

が、何年か前に宮崎に演奏旅行に
行ったとき、団員の息子さんに
思いっきり年齢を間違われていた。

その時はネタになるくらいにしか
考えていなかった。

が、今週火曜日に窓口業務をしたとき
僕より4つ上の女性の職員と
当番にあたった。

その時の話で、彼女も
最初、僕のことを自分より年上と思っており
僕の部の一部の上の人よりも
上だと思っていたとか。
話を総合すると、どうも、ごく最近まで
そう、思っていたようだ。

同い年、一つ下一つ上、幾つ上
の職員の名前を挙げても
結構驚いてはった。

で、今日、対応した企業の人と
(何回か来られている人)
きっかけは忘れたが年齢の話になったとき
その人も、本気で驚いてはった。
「え?!、そうなんですか?」と。

う〜〜ん。

とても41歳には見えないようだ。

ということは、
僕自身は、41歳として話をしていて
相手の年齢も、自分よりは
上か下か、おおよそ予想して
多少の調整をしている。

でも、相手の方は、
僕の年齢を、50歳近くのイメージで
話をしている可能性があるわけで。

言動に多少注意した方が良いのかな。

しかし・・・、いつになったら年相応に見られるのだろうか?

2011年5月13日(金)
映画放談 「まほろ駅前 多田便利軒」

瑛太さんと松田龍平さん主演。

便利屋の仕事を通じて
繰り広げられる人間模様がメインの映画。

二人の息がすごくあっている。
役どころで二人は幼馴染という設定だが
違和感なく地で行っている印象を受ける。

瑛太さんはバツイチで子供がいた
という設定なのだが、久しぶりに見た彼は
驚くほどに父親の空気感を身にまとっていた。

松田龍平さんは、ますます父親に似てきたなぁ。
漂々とした中に、
時折見せる抜身のナイフのような鋭さ。

映画の中での役どころと見事にはまっていた。
娘がいるバツイチの役で、これも違和感なく
はまっていたなぁ。

映画の中で、松田優作さんに対する
オマージュと思しき部分があり
息子である龍平さんに
「なに?誰にも似てねぇよ」と
言わせるシーンでは、思わずニヤリとしてしまった。

僕が死ぬまでに
この二人がどんな役者になって行って
どんな作品を見せてくれるのか
今から楽しみで仕方がない。

2011年5月14日(土)
サイクリング日和

あまりにさわやかな天気なので
今日の移動はすべて自転車にした。

まず家から谷町4丁目のルーテル教会。
go_to_LutheranCurch_from_ho.png

その後いったん自宅へ。
go_home_from_LutheranChurch.png

再び男声練のために江坂へ。
go_to_toyoichi_from_home.png

で、帰り曽根に寄って自宅へ。
go_home_from_toyoichi.png

総移動距離は35.26132km。

さわやかとはいえ、
ずいぶん走ったなぁ。
普通の自転車で。

まぁ、おかげで、練習でよく使う
江坂の豊一ホールと
曽根の公民館は
自転車の移動圏内に入った。
今日ので距離感がつかめた。
雨でなければ、利用できそうだ。

2011年5月15日(日)
若いとはこういうことだな

関学グリーと阪大男声の
ジョイントコンサートに行ってきた。

関学グリーは黒人霊歌
阪大男声は花に寄せて。
合同は多田武の富士山。

アンコールは斎太郎節だった。

関学グリーの黒人霊歌は
一曲ごとに拍手が出るなど
実に若々しい演奏だった。
選曲も成功していると思う。

斉唱でぐいぐい押していく様式は
まさに男声合唱。
ソロを歌った二人も良かったと思う。

セカンドのソロは良い味が出ていた。
バリトンのソロは、声質にもう少し明るさがあれば
なお良かったかも。
どちらも、歌詞は若干分かりづらかった。

阪大男声の花に寄せては
なかなかいろんな意味で
難しい曲を選んだなという印象。
とても良い誠実な演奏をしていた。

パートソロが出てくると、
どうしても、うーんと言うところが。

この曲を
新体制の初のステージに持ってくるのは
なかなか勇気があるなと思う。
良い部分があるだけに
そうでないところが少し残念。
楽譜を見ていないので、ハッキリとしないけれど、
前半の曲のテンポがずいぶん速いように感じた。

関学グリーと阪大男声の選曲の差が
ずいぶん出たように感じた。

合同の富士山。
100人揃うとさすがに凄い。
浅井さんは相変わらず、
ちょいちょい富士山の形を指揮に入れていた。
しかし、ハードな曲なようで
後半に向けて、トップテノールは
コロコロさえずっていた。

ここまで、両団、合同総じて
オクターブが意外と合っていないと感じた。
それと5度。
これにこだわるだけで、ずいぶん変わると思うけどな。
同声合唱なので、合っているように聞こえるけど
オクターブは、予想していたより
合っていないところがあった。

アンコールの斎太郎節。
これが宮城県民謡だと初めて気がついた。
高校の時、混声合唱のうっぷんを晴らすため(?)
男声合唱で遊ぶとき良く歌っていた。
さすがに100人は迫力があった。
それと両団が上手く解け合って
良い演奏でした。

色々書いたけれど、
男声合唱の良さは充分に出ていた。
高校生や中学生が聴いていたら
間違いなく、かっこいいと思ったろうし
僕も、俺もやりたいと思っただろう。

それほどまでに瑞々しく、力溢れたステージだった。

2011年5月16日(月)
あの戦争と日本人



中高生に読んでもらいたい。

本来学校で教えるべき内容。
つい最近の近代ですら、
歴史が都合よく塗り替えられ
伝えられるのかよくわかった。
それ以前ならなおさらで、
勝者が都合よく書き換えてしまったら、もはや検証しようがない。

国力を冷静に判断し
最善の手を打つ。
この当たり前が機能しなくなり
日本は敗戦を迎えたことがよくわかった。

戦争がはじまったころ
昭和天皇の年齢が
今の自分と年齢が変わらないことに驚き、
そして、お気持ちを想像するに
その苦悩はどれほどであったか。

歴史は知っておく必要と
その価値があるということを
知らしめる良書。

2011年5月18日(水)
国家、国旗、国歌という枠

内田樹の研究室
国旗国歌と公民教育

を読んで。

橋下徹府知事率いる大阪維新の会が
「君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案」を
今月の府議会に提出するのを受けて書かれた内容。

内容には至極納得。
読みやすい語り口なので、
騙されてんじゃないかと思い(笑)、
再度読むも、やはり納得。

個人的な意見を言えば、
国歌も好きだし、歌う場面は減ったが歌うし
日本の国旗も好きだ。
シンプルだしね。

今回のことに限らず、
反対だとか文句(あえて文句と書く)を言う人々は、
その大半は、代案を出さない。

で、幼稚で、自己満足な主張を繰り返し、
幼稚な行動に終始する。
と僕には見える。

国旗を否定し、国家を歌わないのは、
「個人」レベルでは好きにすればいいが、
教師が、職場で、子供の前でやることに関しては、
反対だ。

理由は、(取り越し苦労かもしれないが)
自国の国旗国歌に対して、
敬意を抱かない人を作り出す危険があるからだ。
そういうものは、ある種、習慣として
身に着ける儀礼として、
あったほうがいいと思う。

危惧するのは、自国の国家国旗に敬意を示せない人間が
他国の国旗国歌に敬意を示さない可能性が
消えないからだ。
悪気はなくとも、国旗国歌に敬意を示す習慣がない場合、
または、それを知らない場合、
人は、まったく悪意なく他国の国旗国歌に対して
敬意の態度を示さない可能性があると思うのだ。

ポーズから入ってもいいのだ。
それが本物になることだってある。

なぜ、義務化する条例案が出るような事態になったか。

そういう幼稚な手段に、
子供の前で出る人間がいるからだ。
少なくとも、日本の国籍を持ち、
国に守られている(自覚ないんだろうな)
のにもかかわらずだ。
(海外に行けば、日本国民であることがどういうことか少しわかる)

気に入る気に入らないの考えは良いとしても、
代案もなく反対するのはいただけないな。

所作や、態度が作り出すものに対して
もっと考えたほうが良い。

もちろん、良い面と悪い面、両方あるわけで、
それを教えるのが教師じゃないのか?

その解釈は、教師の数だけあって良い。
(反対も含めて、そこで子供と話せばいい)
集団に所属し、生きることについて、
どうすればいいか、子供に教えてあげれば良いと思う。

国家、国旗、国歌を持つ国民としての
基本的な振る舞いがあり、
その枠があるからこその多様性だと
子供が学べるといいな。

基本はこれだよ、
でも、それに対して、思うことは
いろいろあっていい。
と、僕は思う。

こんな条例案が提出された時点で
教育者は、有識者は抗議するのではなく、
猛省するべきでは、と思うのだ。
もちろん、自分自身を含めて。

2011年5月19日(木)
当たり前が条例化する喜劇

「君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案」
に関して。

ずっと疑問だったのが、
国旗を掲揚して、
国家を斉唱することは
日本人として、
駄目なことなんだろうか?
ということだ。

今回ざっと、君が代や国旗に関して
異論のある人の記事などを
見たけれど、
腑に落ちる意見は皆無だった。

それに加えて、
そういった主張をする人に
魅力のある人も皆無だった。
あくまで、僕の主観で。

この条例案に関して、
横暴だとか違憲だとか、
異論を書く人も結構いた。

昨日取り上げた内田先生も、
権力に屈する大人を見て生徒がうんぬんと
書かれてもいた。

でも、ちょっと待ってほしい。
国旗を掲揚して
国家を斉唱することを
学校で当たり前にできないってことは
異常ではないのか?

日本だよな、少なくとも。

これが、どこか植民地で
強要されているという話ではないよな?

日本で、そこにある学校で、
国旗を掲揚し、国歌を斉唱することが
当たり前じゃないことって
おかしいんじゃないか?

それを拒否する教師がいる、
それを自治体が採用している、
それに給料を払っている、
おかしくないか?

愛国とかそういうレベルではなく、
僕は一国民として、
当たり前のこととして
国旗を掲揚したいし
国歌を斉唱したい。

それに反対するって
いったいなんだ?

不思議でしょうがない。
橋下知事が今回突然言い出したような
記事も散見されるが、
彼は知事になる前から
ずっと言ってたぞ。
東京で放映されない番組などで(笑)。

今、国旗は日の丸だし、
国家は君が代なんだよ。
ひとまずは、それでいいんじゃないのか?

当たり前が、当たり前として
通用しないことが当たり前になっている
それを条例化せざるを得ないことを
もっと考えたほうがいいと思う。

教師が尊敬されなくなったことと
無理やりつなげるのにも違和感がある。

それは、また別の問題だろう。
こう考える僕は変なんだろうか?

2011年5月20日(金)
散財が止まらない

おもに本。

図書館に行けという話もあるが、
書店が好きなのだ。

それだけでなく、アマゾンでも買う。
この前、三谷幸喜さんのエッセイ最新刊を
読みながら、空いた片手で
iPhone操作しながら、
文中に出てきた本を注文する始末。

大阪駅が新しくなり、
ビルに三省堂が入ったので、
さっそく三省堂カードを作り本を買う。

読むほうが間に合ってないという話もあるが、
堰を切ったように、
読書欲に歯止めが効かなくなっている。

昨日も、日本の近現代史に関する本で
半藤一利さんの書籍をいくつか購入した。

読みたくて読めてない本が、
かばんに入っていて、楽譜もあるので、
結構な重さになっている。

ボーナスも近づいてきて
非常に危ない状況だ。

2011年5月23日(月)
山超えた

先週末の深夜、
査読が返ってきた論文を修正して
送付した。

これで、一山超えた。
アクセプトされれば、
掲載論文2本目になる。
しかし、2本目も英語になるとは・・。

日本語で書きたいな。
いや、書きゃあ良いんだけど、
タイミングで、結局こうなっている。

さて、あと1本か。

2011年5月25日(水)
首が・・・・

昨日、通勤で駅へ自転車で向かっているとき
前輪が段差で滑って
派手にこけてしまった。

ちなみにこの段差は、
以前は無くて、
この1ヶ月前の道路工事で
出来たものだ。
前は道路と面一(つらいち)だった。

工事後、段差危ないなぁとは
思っていた。

が、すっかり油断して
雨で濡れていたのもあり
滑ったのだ。

滑るのが僕だけなら良いんだが。
ちなみに場所はウェスティンホテルの
南西側にある車の乗り入れ入り口だ。

2011_05_25.jpg

この写真は、面一だった頃だ。

近くの人は注意した方が良い。

で、少しぬれたけど、
そのまま職場へ。

仕事終わりで、練習へ向かう最中
徐々に首に違和感が。

歌い始めると、喉がおかしい。

声帯を下へ引っ張る筋肉の右側が痛い。
軽くむち打ちになった。

この状態は、初めてなので
何とも不便だ。

まぁ、骨とか何ともないので
ラッキーとしましょう。

2011年5月27日(金)
2本目

論文採択が。

4月にまったく練習へ行けなかった原因が
この論文作成にあった。

2週間ほど前に査読が帰ってきて
先週末、修正論文を返し
今日返事が来た。

最初の提出が遅れてしまって
少し焦りはしたが、
結果的に、最新の成果を盛り込めたので、
良かったのかもしれない。

しかし、スケジュール上では、
きっちり1年半分遅れている。

3本目は日本語にしたいもんです。

しかし、その3本目が、
大変なんだよな・・・・・。

2011年5月30日(月)
夢か現(うつつ)か

その時、僕はヴェネツィアへ向かう飛行機に乗っていた。

機体は降下を始めて、
間もなく、現地に到着しようとしていた。

演奏旅行の旅路の途中だった。
現地に着いてホテルの部屋に入った時、
冷や汗が流れた。

手持ちのiPadのスケジュールを見たのだ。

演奏旅行の日程に、
自分が対応する、来客のアポイントが、
ぎっしり詰まっていた。

完全にバッティングしている。

今いるのはヴェネツィア、
その来客は日本。
嫌な汗が流れた。

なぜ、スケジュールが重なっているのだ?
覚えがない。
今から連絡を入れるか?
いや、日本は夜中だ。

さぁ、どうする・・・・・・!
目が覚めた。

夢と現実がまだつながっている。
自分の部屋なのはわかったが、
演奏旅行に間もなく行かなければ、
という思いが気持ちの中を占めている。

夢だけど、間もなく出発することは現実なのでは?

PCに向かい、スケジュールを確認。
・・・・・、演奏旅行の予定を示すバナーはない。
そして、珍しく、ここ2週間ほど、
来客の予定もほとんどない。

何度も確認し、
ようやく、現実に戻った。

なんで、こんな夢?

2011年5月31日(火)
敬意の所作と習慣

国歌、国旗に対する敬意に関して。

日本という国の構成を考えるうえで、
少数の異なる意見を持つ者や、
時に、世間に対して攻撃的な態度を持つ人を
ある程度まで許容することは、必要だろう。

ある程度の成員で構成される集団の場合、
一定の割合で、
いわゆる困った人を許容する、のりしろみたいなものは
必要かもしれない。

その考えが広く認められるかどうかは別として、
国旗や国歌に敬意を抱かない自由は
保障されてもいいだろうという主張は、
ありだということだ。

内田樹氏はHPで、
アメリカは国旗を損壊する自由を認めたとあるが、
これに関してはどうやら、そのアメリカでも
結論はまだ出ていないようだ。
(もう少し、情報を仕入れようと思う)

要するに、まだ、もめているということだ。

だから、日本でも、せいぜい喧々諤々議論すればいい。

内田氏は星条旗の損壊を認めることで
星条旗の威信が高まったとおっしゃっているが、
本当にそうかな?

知り合いに、国旗を燃やしたり破ったりする人がいたら、
ひとまずは、理由を尋ねるかな。
でも、いい気分はしない。
他国の国旗でもそうだ。

理由如何によっては、距離を置くか
袂を分かつかもしれない。
僕は、日本のシンボルを大事にしたいと思っている。

別にそこまでアメリカをまねる必要もあるまいに。

集団を構成するためには、
何かシンボリックなものは必要だと思う。
目に見えるものでもいいし、
信条など目に見えないものでもいい。
それらに対する敬意は、
集団を構成するための、接着剤のようになっている。

それに異議のある人は、
その集団から離れてもいいし、
その集団が融通の利くところなら、
所属し続けることもできるでしょう。
でも、それはその集団をぶっ壊さない
不安定にしないという条件付きだろう。

それをバラバラにする、
不安定にする因子は、
通常その中にいることは困難だ。
普通はお互いのために袂を分かったほうがいい。

で、そのシンボルに対する敬意は、
どんな風に育てられるか?
そういう気持ちを持ってメンバー入りするのもあるだろう。
集団によっては、そんな気持ちもなく入って、
そのうち、敬意が育まれることもあるだろう。

僕は形から入るということが、
思ったより大きいと思うのだ。
意味が分かってその所作をする場合もあるだろう。
でも、所作が最初にあって、後々意味が分かってくる、
その習慣によって敬意が後からついてくることも
往々にしてあると思えてならない。

所作をまねたり、習慣化することの重要性を、
もっと考えたいのだ。


”池谷裕二 著
脳はなにかと言い訳する”
のなかで
人間は、行動が先でその後、思考がついてくるという
研究結果があると書いてあった。

とすると、
国歌や国旗に対する敬意を
習慣化するというのはありなのではないかと
思うのだ。

意味は、知識を得て、
自分の考えを持つようになってから
知っても遅くはない。

日本という共同体で、シンボルの一つとしての
国歌と国旗はありだと思うのだ。

それを認めたくない人も、居て良いと思うが、
こと、それが教師の場合はNoである。
ましてや公立の場合は、そんな教師は首にしてほしい。
そんな奴、教員採用受けるなよ。
そんな奴に税金使われんのはまっぴらごめんだ。
それをこれ見よがしに、入学式や卒業式でやるな!
ということだ。

その意味で、大阪府の条例案は、
恥の極みではあるが賛成だ。
こんな条例なしに、
卒業式や入学式が行われるほうがいいわけで。
普通にやっている先生方には、
全く影響のない条例でしょう。

形を守るということは
良いところ悪いところ両方あると思うが、
敬意の所作、習慣は大事にしたいと思う。

個人的なことを言わせてもらえば、
自分は両親に対する敬意はない。
所作を習慣づけるチャンスはあったかもしれないが、
母親の父親に対する、まったく真逆の行為を見るにつけ、
無くなっていき、それと同時に
その行為を行う当人(母親)に対する敬意も消滅した。
それが引き起こされたのは小学校高学年から中学にかけて。

低学年くらいまでは、親に対する敬意を保とうと、
小さいながらに、何とか頑張っていたような、
うっすらとした記憶はあるが、
その後、それはすべて破壊された。

所作や習慣のレベルで、
夫婦間に敬意があれば、
ここまで至らなかったかもしれない。

ゆえに、母親と似た言動や所作を見ると、
敬意が吹っ飛ぶことがある。

それは、今も尾を引いている。
こんなこと、僕だけならいいが、
悪い習慣も身につくのだ。

自国の国歌や国旗に敬意を抱く習慣があった場合、
他国の国歌や国旗に対して敬意を抱くようになる確率は
そうでない場合に比べてきっと高くなると思う。
ある一定数、そうでない人も出るかもしれないが。

国歌や国旗を基盤として
話を進めるわけにはいかんのだろうか?
この話題が出てくるたびにそう、思ってしまう。

[先月] [目次] [来月] [トップ]

gabe@collegium.or.jp
Akiary v.0.51