日々つれづれ
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2011年12月2日(金)
先の選挙について

大阪の選挙についての記事がチラホラ散見される。
橋下知事の批判記事に共通する匂いは、
海のものとも山のものともしれない、
新しい勢力が勝利し、構造を変えていくことに対するビビりだ。
あるいは、面倒くささか?

そして、その論拠で引き合いに出されるのが、
ヒトラーであり、今日読んだ記事はムッソリーニだった。
で、だいたい、先の戦争体制のことが引き合いに出される。
そういうことを書く人たちは、投票した人に対して
こいつら馬鹿だと言っていることに気がついているのだろうか?

で、今までの日本で民主主義が【正常に】運営されていたと
のたまう。
選挙も、民主主義の象徴として、
それを運営する官僚制度も、民主主義にのっとって
【正常に】運営されていたと。
それを半ば独裁のような形で、引っ掻き回す橋下はケシカラン!
というわけだ。

本当にそうか?

個人的には、今回の選挙、自分の一票で、
大阪都を見てみたいという思いで入れた。
橋下市長の著作も読み、
ツイッターで流れる主張も読み、
納得の上だ。

批判記事を見ると、そういうのを読んだ上で
書いていると思われる記事は少ない。

できれば、読んだ上での批判記事も読みたいが、
そういう書き手は少ないようで残念だ。
こうして振り返ると、
今までのは選挙でも何でもなかった。
通りたい人の就活がどんどん最適化されただけで、
平松氏がやっていたようなことが
これまでの選挙だったのだ。

だから、公約に対しても責任は取らないし、
投票した方も覚えちゃいない。

そんなもの、民主主義なはずがなかろう。
批判記事の根っこがすでにおかしい。
残念だ。それもいい歳した人が書いているものが。

そして、今回、既存のメディアがその力を失ったことも
はっきりしてしまった。

あれだけネガティブキャンペーンをしたにもかかわらず
大差がついてしまった。
民衆は、既存のメディアが考えるより
賢くなっている割合が増えていると思うけどな。

何れにしても、色んな物の転換点であったことは確かだ。

2011年12月7日(水)
唖然としたこと

最近、ニュースを見て
唖然とすることがあった。

別に、特別なニュースではない。
ただ、現総理や、現閣僚が映ったニュースだ。

ここ最近は、大阪の維新の会のニュースが良く流れており、
松井大阪府知事や橋下大阪市長をよく見ていた。
国政と地方政治を一概に比べてはいけないんだろうが、
現総理と現閣僚を見て、
政治家に見えなかった。

なんか、オーラも何もない、
普通のおじさんたちに見えてしまったのだ。
かの小沢一郎氏もしかり。
本当に、一瞬誰か分からなかった。

あれは政治家ではない。

ただの調整役でしかない。
強いて言うなら政局家か。

国会審議のニュースが流れても、
あぁ、何も変える気が無いんだ、
というのがハッキリすぎるくらい見えてしまった。

そこに、民意は一欠片もない。
自分か、自分の所属する組織の利益だけだ。
そんなのが、目まいがするほど沢山いる。

あれは、政治家ではなかったのだ。
と、今更ながら、ハッキリ見えてしまった。

それに、唖然とした。

国会議員は、
一切の責任を引き受けないために、
意識してか無意識か、
せっせと綱引きしている。

決まることも、
どうにでもなる骨抜きのことばかり。
良い方へは変化しないだろうな。

誰も責任を引き受けないんだから。

そうか、こんなのばっかりだったんだ。
覚悟のない烏合の衆ほど、
見苦しいものはない。

それが分かっただけでも、
今、民主党が政権を取った意味は、
反面教師の意味合いであった。

政治のことは他人ごとで、
のほほんとしていられる時代は
とうの昔に終わっていたんだな。

2011年12月16日(金)
見えなかったこと



先の震災でマスコミが報道しなかった
亡くなった人とそれに向きあった人の記録。

どこか、おぼろげに想像していたが、
現場は、やはり凄まじかった。

この本で取り上げているのは
釜石での様子。

東北の全域に亘って、
同様のもしくは、もっと悲惨な状況があったことは
想像に難くない。

センセーショナルではなく、
淡々とした状況描写は、
冷静なぶん、よりいっそう
読み手に迫ってくる。

通勤時間や休憩時間に読んでいたが、
何度か涙腺が崩壊しそうになった。

読み進める中で、
震災直後のまさに現場では、
その状況が、一番必要な、その現場に
伝わっていなかった事が
よく分かった。

一夜開けても、何が起こったのか、
その現場では分かっていなかったのだ。
それは、阪神淡路大震災でも同様だった。

電気に依存しない、緊急事態の伝達手段が
必要だと、改めて思った。

2011年12月22日(木)
明るい朝 遅刻なし

一度5時過ぎに目が覚めた。
当然真っ暗。

なんの躊躇もなく、
あと1時間はある睡眠を取るべく寝床へ。
起床は6時から6時半の間だ。
この季節、起きても暗いのだ。

・・・・・・・

すっきりと目覚める。
周囲が明るい・・・・・・!
素早い動きで、枕元の目覚まし時計を確認。
・・・・、7時50分を過ぎている!!!!

飛び起き、着替え、飛び出す。
すでにBGMが頭に鳴り響く。

”かげりのない 少年の
季節は すぎさってく
風はいつも 強く吹いてる

走る走る 俺たち
流れる 汗もそのままに
いつかたどり 着いたら
君に うちあけられるだろ”

走る走るのは俺たちではなく、俺だ。
とにかく急いでマンションの階段を駆け下りる。
しかし、いつも通る地下道は、
おそらく通勤する人で一杯だ。

自転車にたどり着くまでに、
ルートを選定。
少しだけ遠回りだが、信号のない裏道をチョイス。

駅へ向かって走り始める。
いつもは見ない小学生の集団登校の列。
あ、制服なんだって言っている場合ではない。

走る走る。

駐輪場に思考が飛ぶ。
いつもの駐輪場は、この時間だ
空いてはいまい。
しゃーない、ヨドバシの駐輪場に止めよう。
1時間100円は痛いが(帰る頃には2,000円近くなる)
寝坊したペナルティだ。

よし、抜けた!
一応、ヨドバシ裏の駐輪場を見てみる。(150円/1日)
・・・・・!
一つ空いている!!

急ブレーキをかけ、止めた後、
走って駅へ。

改札を抜ける、
電光掲示板を見ると、
時刻は8時6分、
快速は8時7分
新快速は8時11分。

ホームまでまだ少しある。
快速はおそらく無理だ。

いつものコーヒー買おう。
買って、ホームへ駆け上がる。

目の前に止まっている電車に飛び乗る。
よく見ると快速だ。

いやいや新快速でいい。
と、降りて、新快速の列へ。
程無く快速は出発。

一応、ルート検索。
ヨシヨシ、次の新快速で、
職場の最寄り駅に、8時50分に着く。
余裕だ。遅刻は免れた。

しかし・・・・
寝坊して、余裕のない頭は重大な事実を
ここで見落とすことになる。

新快速は調子よく西へ向かう。
芦屋も予定通りだ。

しかし・・・・、
灘駅手前でまさかの減速。
三宮には1分遅れ。
目の前にいる筈の普通電車はどこにもいない。

神戸駅での連絡に一縷の望みをつなぐ。
しかし、無常にも元町駅過ぎで、
またしても減速。

ここでようやく気がつく。
大阪駅で間違えて乗った快速、
あれ発車時刻を明らかに過ぎていたな。
改札に入った時 8時6分

コーヒー買う。(普通ならこの時点で発車していたはず)

ホームへ上がる。8時7分はゆうに過ぎてたはず。

快速に間違えて乗り、わざわざ降りる。
8時7分はおそらく過ぎていた。

【先行列車の遅れ】だ。

当然神戸駅には普通電車の姿はなく、
ルートを再検索。

次のは職場の最寄り駅に
8時55分に到着。
これは大阪駅発の一本あとの新快速と接続。

これは見事に接続していた。
(なんでやねん)

最寄り駅へ着。
走った。
職場へは始業2分前に到着。

数年ぶりの明るい朝であった。

2011年12月24日(土)
名古屋ビクトリア合唱団第6回教会コンサート

五反城教会二階席のいつもの場所で
演奏会を聞いた。
 
【Program】 
―第一部―  
Johann Sebastian Bach
  O Lamm gottes, unscguldig, BWV656 罪なき神の子羊 ★  
Heinrich Schütz
  Singet dem Herrn ein neues Lied, SWV35 新しい歌を神に向かって歌え  
高田三郎
  アッシジの聖フランシスコのよる 平和の祈り 
 
―第二部―  
Tomás Luis de Victoria
  Missa pro Defimctos, quatuor vocum [Requiem]死者のための聖務曲集,4声
  Introitus / Kyrie / Graduale / Offertorium / Sanctus / Agnus Dei / Communio / Absolutio 
 
―第三部―  
Johann Sebastian Bach
  Singet dem Herrn ein neues Lied, BWV225 「歌え、主の御前に新しき歌を」  
Geofrey Shaw
  Fantasia On Adeste Fideles 「神の御子は」によるファンタジア ★  
Peter Gritton編曲
  Winter Wonderland ウィンター・ワンダーランド
  The Christmas Song クリスマス・ソング
  Santa Claus Is Coming To Town サンタが町にやってくる  
木下牧子
  混声合唱のためのアカペラ・コーラス・セレクションより 祝福
 
感想は演奏順とは異なる。
 
演奏は、とてもよかった。
ある一定ラインを超えた演奏だったと感じた。
 
特にビクトリアのレクイエムは、
集中力を切らすことなく、歌いきった印象を持った。
40分近くにわたって、あのような演奏は
普通の団体ではできない。
 
以下は、ある一定レベルを超えたことを前提に
僕が気になった点を書いている。
 
今回、2曲のダブルコーラスがあった。
いずれも、Singet dem Herrn ein neues Lied だ。
シュッツとバッハの作品。
 
シュッツに関しては、
二分音符基準のテンポ感を
掴みきれず、振り回されている印象を受けた。
ドイツ語の発音も、わかりにくい所があった。
 
ダブルコーラスになることにより、
パートの人数が半分になり
個々人の技量がどうしても表に出てくる。
 
大きなテンポ感が見えてくると、
より合ってくるはずで、
ドイツ語に関しても、発音を意識することで、
かえってリズムと躍動感が出てくるはずなので、
それがうまくいき始めれば、
今とは別の楽しさが見えてくるかもしれない。
 
バッハに関しては、
オクターブやユニゾンが揃い切らない所が
気になった。
要するに揃っているところは、
よく整っているだけに
揃わない所が目立ってしまう。
 
それは、発声的に難しい箇所だったり、
フレーズの終わりで息も絶え絶えになる箇所だったりする。
しかし、そこが和音の変化する大事な場所だったりするので
余計に目立ってしまっている。
 
その大事な箇所でハーモニーが決まらないのが
残念だった。
 
より楽しむためには、自分の歌う箇所を
徹底的に練習し、
ほぼ覚えて、他パートが聞けるようになることだ。
そして、リアルタイムでハーモニーの変化を感じて、
合わせていく。
 
楽譜を見て、今自分が出している音の役割を
あらかじめ理解しておくのは言うまでもない。
 
そういう地味な作業を厭わなければ、
また違った景色が見えてくる。
 
どちらにしても、まだ伸びしろが残っている印象なので、
今後の再演にかなり期待が持てると思った。
 
ポップスアレンジのクリスマスソング3曲。
いい演奏だったと思うが、
ノリというか、リズム感というか、
こういうアレンジであるとか、
こういう曲を普段あまり聞いてないのかな?
と思わせる箇所はいくつかあった。
 
パート間でもノリに差があって、
個人的にはベースのノリが一番しっくりきた。
もうちょい積極的に歌いに行ってもエエと思うけどな。
上手い合唱団なだけに、
これも今後に期待。
 
最後に祝福。
本当に上手かった。
今の合唱団の実力がハッキリ出た演奏だった。
 
とすると・・・・・・、
どうやら、今後の課題は、個々のレベルアップということか。
1パートの人数が少なくなると、
ハーモニーが乱れる傾向にあると感じたので。
ダブルコーラスではパートが半減するわけで、
個々の技量はそれなりに要求されるだろう。
 
でも、それは
練習すりゃ何とかなっていくわけで、
やはり、今後が楽しみということになる。
 
どこまで行くんだろうねぇ。

2011年12月29日(木)
少し馴染んでくる

新しく買ったMacBook Air。

たぶん極端なカスタマイズはしないだろう。
OSの手触りに徐々に体を馴染ませる。

速い遅いもあまり関係無いような気がしている。
Macをしばらく買わなかったのは
軽いノートがなかったのもある。
それと値段だ。

軽く性能が高いものがようやく出て、
購入に至った。
以前からそうだったが、
Macは操作しているだけで楽しく
その操作感覚は、以前に比べて、更に研ぎ澄まされていた。

iPhoneとiPadでMacとの再会を果たしていたけれど、
昨日から使い始めたMacBook Airは
その延長線上にあった。

これから楽しみだ。

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