八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.19


【掲載:2014/01/09(木曜日)】

やいま千思万想(第19回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[歌い手の内向き発声が「くぐもり」]

 私は指揮者。日々、楽器や歌と接しています。
独奏、独唱は勿論、オーケストラや合唱という大人数を通じて音楽表現を担っている者としてどうしても考えなければならないポイントがあるのですね。

 その問題点を今回と次回の二回に分けて述べてみようかと思いました。
その問題とは?「音の揺らし=震わせ」と「声のこもらせ=くぐもり」です。
音や声を揺らしたり震わせたりすることをビブラートと呼ぶのですが、これがなかなか曲者(くせもの)で我々を悩ませます。
幼い頃からこのビブラート(vibrato)を教え込まれたり、その魅力にとらわれてしまうとその後の音楽表現に大きな足枷(あしかせ)となってしまうことを私はこれまでに経験してきました。
特に日本ではこの表現が顕著で、深く考えさせられることになったのですね。
日本の伝統音楽には母音を延ばす特徴があるのですが(特に語尾の部分が延びます)、その延ばしにビブラートがかかってしまうと聴き手はほぼ何を言っているか解らなくなります。

 どうしてそのような「解らない」表現法を用いるようになったのか、その解明がどうしても必要でした。
その上「こもらせ=くぐもり」と感じる独特の発声が加わるとなればどうしてもその背景も知りたくなります。
ビブラートは「艶(つや)」のためと一部には説明されているのですが、どうも私にはピンときません。
ましてや「くぐもり」はずっと私の悩みの種、どうしても説明がつかなかったのですね。
それがヨーロッパでの幾多の演奏がきっかけで繋がりました。

 西洋のように石造り、煉瓦造りによった「良く響く」音響環境に対して、日本では土と紙の壁で囲まれた響かない空間での苦肉の策として「ゆれ」を生みだしたのではないか。
「ゆれ」とは残響効果だった。
西洋のビブラートは演奏会場の規模の拡大によって生まれたものですが、日本では残響を持ち得なかった人々が大陸から伝わってきた鐘や鈴の鳴り物に接し、感動し、その余韻を真似ようとしたものではないか。
お寺の鐘楼を打ったときのあの余韻「ウオ〜ン・ウオーン」が言葉の語尾を延ばすことと同じ感覚、そのように思うのです。
重々しさ、荘厳さ、それに「ありがたみ」といったものが日本独特の「音の揺らし=震わせ(ビブラート)」になったのですね。

 この唱法が日本の伝統音楽を支えた家元制度と結び付くとき、言葉が聞き取りにくい「くぐもり」の発声も説明ができるように思われます。
「くぐもり」は歌い手自身が内に響きを感じる内向き発声。
良き感覚を自らが味わうものなのですね。
見知らぬ観客、聴き手に伝えるものではないと思われます。
これは内容をよく解り得た気心の知れた仲間内で共有される発声でしょう。
ですから謡われている歌詞が鮮明であるということがそう重要なことではありません(聴く側が内容をよく知っています)。
聴く興味、面白みの対象が別にあるからですね。
次回は八重山ついて所見を述べてみましょう。





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