八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.28


【掲載:2014/05/15(木曜日)】

やいま千思万想(第28回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[学校音楽=クラシック?]

 本土の若者と接していてつくづく学校教育は重要だと思うようになりました。
(この状況は本土だけでなく、日本全体に言えることかもしれません)教養が片寄っているということもありますが、総じて思考が狭く、また浅く感じてしまうことが多く、先ずこちら側の思考回路が滞ってしまいます。
コミュニケーションを交わすためには相当こちら側からの努力によって歩み寄りが必要だと思うことがあります。
若者もきっと同じ思いかと想像するのですが(話が判らない親父だと)、両者で交わす情報交換は必須の事、前提条件として言葉の摺り合わせが必要だと痛感することの多い昨今です。

 音楽教育について考えます。
我が国の音楽教育は幾十にも重なる複雑さを持っています。
まず用いられる言葉の意味が曖昧で、かつ幾つかの意味が重なっています。
言葉が持つ本来の意味から外れてしまったものも多いです。
明治に始まる音楽教育はそれまでになかった文化、西洋音楽を急ごしらえで取り入れたものでしたから言葉の翻訳の問題もありましたし、言葉本来が持つ背景がそぎ落とされてしまっていることも多いです。
明治から147年経つ現在でもそのことによって本質が見えなくなってしまっていることがあります。

 「クラシック」という言葉を取り上げましょう。
先ず、この意味を知るにはその前提として音楽史の流れの知識が必要です。
一般的な西洋音楽史は、古代→中世→ルネッサンス→バロック→古典派→ロマン派→20世紀と区分されます。
 「クラシック」という言葉を用いたのはロマン派の人々でした。
先人の音楽家を尊敬し、称賛しての呼び名だったのですね。
つまりクラシックとは一区分の古典派の音楽のことだったのです。
これが狭義的に用いられる意味で、古典派とその継承者たちによるロマン派(クラシックと名付けた人たち)の人々やその音楽のことを指しています。
しかし我が国でクラシックといえばその本来的な意味が薄くなり、広義的な意味の、学校で学ぶ「西洋の芸術音楽」という音楽全般の意味を表します。
つまり学校で学ぶ堅苦しくて難解な「芸術」の音楽がクラシックとなるわけです。
クラシックという言葉は我が国では二重の意味を持つことになりました。
私たちの会話での「クラシック」、さてどちらのことを意味しているのだろうと先ず考えなければならないことになります。

 学校音楽=クラシックだと書きましたが我が国ではこれが皮肉にも当を得た格好になっています。
つまり音楽教育が狭義的なクラシック音楽一辺倒だということです。
古典派とロマン派オンリー、それが主流なのですね。
本来のあるべき姿の教育とは、歴史的な流れによる総合的なものでなければならないと私は考えます。
それでこそ全体を見渡せる。
その上に立って我が国の伝統音楽をもしっかりと学ぶことができる。
そして更には未来を探る音楽をも試みることのできる場、そういった教育がここかしこで行われるべきだと思うのですね。





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