八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.80


【掲載:2016/06/23(木曜日)】

やいま千思万想(第80回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

音楽は感謝と平安の心の中でこそふさわしい

 6月の23日は沖縄県の「慰霊の日」。
この日に限らず、沖縄での行事については本土と沖縄との間に温度差を感じることが多いです。
まぁ、それぞれの地域的な事情や経緯もありますから温度差があるのは当然、ということでもあるのですが、「戦争」に絡んだ、関連したものはそれらの中でも大きく差があるように思われます。
同じ国として終戦を迎えながら、本土と沖縄はその後の歩みを異にしたのが原因ですね。
 意見は様々にあります。正義と言ったって、その正義さえ疑心で捉えられることも多くなった現代です。
何が正しくて、何が正しくないか、自分自身の中でその判断を下すのならともかく、多くの人々との間で共通する「正しさ」として共有することはそう簡単ではないことは明らかです。

 夏が近づいて来ると、周りで見聞きする事柄に私は胸が締め付けられるような、辛く、重々しく、哀しい思いを抱くことが多くなりました。
「戦争」のこと、「原爆」のこと、そしてその後に起こった、あるいは起こっている世界の「紛争」。
人災は勿論のこととして、天災の中にあって失われた人々の失われた魂の無念の思いを、想像力を最大限に働かせて一人一人の「人生」を想像し、考えて見れば、ただただ、いたたまれない気持ちで一杯になります。
 人間として生きることの尊さ、生き方としての誇り、命そのものの尊厳を思う時、どのような事情で、どのような経緯があったとしても、「死」が訪れたことに深い悲しみと、何処に向けたらよいか判らない憤りを感じるのです。
人間の死に上も下も、右も左もない。ただ失われた魂に寄り添い、思いを馳せたいと願う私です。
日本の歴史上、かつてない大きな節目となった戦争。
その終結となった夏が近づいてくると、その様々に錯雑(さくざつ)する意見の中で迷い、悲しみ、漂泊(ひょうはく)しているだろう魂に近づきたいのです。

 国外で演奏する時、私は日本人としての誇りを持って舞台に立っていることにあるとき気付きました。
音楽は国境を越える言語です。音楽を奏でれば、国や人種などで区別のする必要がない世界であると知っています。
音楽で結び合った仲間、信頼を基盤とする音で結ばれた人間同士となるのです。
音楽家とは矮小の国粋の思いなど入る隙などない、個人を立脚点とする国際人である、そう思っています。
私が日本人の作品を演奏するときは「日本人の誇り」をもって演奏します。
諸外国の作品を演奏する時は日本人であることを意識しながらも「人間の感性」を基盤として作品に近づいた演奏をします。
その基盤の核心、それは「他」を想像し、「他」を受け入れる寛容と智慧の心、魂に立脚していることです。
人間の心を結ぶ、死者の魂と結ぶ。全ての人と魂に安らぎを。
私は音楽によって人と魂を癒し、鼓舞し、感謝し、慰め、そして想う。
音楽にとって相応(ふさわ)しい場とは、人と魂とが交感し「平和」と「感謝」のうちに暮らす生活の場です。





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