八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.133


【掲載:2018/10/18(木曜日)】

やいま千思万想(第133回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

〈賞〉や〈高評価〉はその道のりにこそ価値がある

 過日、作曲家のC先生からメールが届きました。
ある合唱界の季刊誌に先生の作品による全集CDが特選として紹介されていることをお知らせしたことに対するお返事です。
全集は10巻目となったこともあってか、〈特選盤〉として記事になっていました。
メールには先生ご自身のお喜びの言葉と共に、私と団にも労(ねぎら)いを頂くという内容で、恐縮しながらの拝読。
そこに次のようなことが書かれてあって、目を見張りました。
「CD特選!私としてもたいへん光栄なことです。賞がどうこう、当間先生はお嫌・苦手かもしれませんが(笑)」と書かれてあったのですね。
「そうなんです」とうなずく私です。

これまでにいくつかの賞を頂きました。
そのように評価下さったことに対して嬉しく、また大変光栄にも思ってはいるのですが、本当のところ少し戸惑い、困惑している私がいます。
いや、敢えて、もっと本音を言えば「賞」なるものに人が描くほど思いを持てない私がいて、どうも居心地が悪いのです。
「賞」とまでもいかずとも、ちょっとした〈褒め〉の類も苦手です。
これは虚勢や威勢、意固地などではないと思っています。
どうしてなのかなと考えた時期がありました。結局、それは〈賞〉とか〈評価〉というものを〈あまり信用していない〉のではないかとの結論に至るのです。
失礼なことではあります。折角評価をして下さって与えて頂いたものを信用してないって! ほんと、不遜な私かもしれませんね。
しかしそう思うのは、これまでに幾つかの例を見てきたからこそなのですね。
ことの裏事情というか、実情を知ってしまえば、ちょっと身を引きたくなります。
大きな組織が個人や団体を推薦することの、真の意味で評価し、賞を決定することの難しさを身をもって経験したからこその思いかもしれません。
(まだまだ大人の対応が苦手な私がいます)
評価が高くなる、賞を頂く、その恩恵は計り知れないことも事実です。
実際、そのことによって私も多くの恵まれた処遇を与えて頂けたことを振り返ることができます。
それは只々、感謝に尽きる思いではあるのですが・・・・・・。
いわゆる社会的な〈賞〉というものに執着心を持てないとするのであれば、何をもって活動を保つエネルギーとするのか。
見返りを期待するのではなく、有名になることでもなく、権威を持たず、またそれによって多くの富を望むことでもない。
ただ、音楽作りする自分と、仲間たちとの信頼の道のり、共に歩み、喜びと感動を求める互いの想いなのだと知るのです。
そのプロセス(過程)、納得できる質と充実だからこその喜びがあります。
そして、その過程の中で良き結果を受ける事となれば次なる夢、希(のぞ)みが湧き立ち、自分自身の中に沸々と鼓舞する心が生まれてくる。
そのことを知るからです。私のエネルギーの源泉だと思います。
今後も演奏会(ライブとして録音します)とCD出版がいくつも予定されています。道程が続きます。





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