八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.145


【掲載:2019/5/13(月曜日)】

やいま千思万想(第145回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

ヘンデル作曲「メサイア」の演奏、それは「平和」を願う人の顔を見ることでした

 昨日(この原稿を書いている日の前日〈2019/04/28(日)〉)、前回のコラムNo.144で書いたG.F.ヘンデルの【メサイア】全曲演奏を終えました。
その報告と感想です。
自負するところとなりますが、我が国においてとても意義深い演奏になったのではないかと思います。
その要因の一つは間違いなく〔新しい対訳〕です。
そしてオーケストラと合唱、独唱者(ゲストではなく合唱団の中から選ばれたメンバーたち)の音楽における一体感、すなわち統一された音楽様式の一致に依るところの演奏かと思います。

 演奏は原曲である英語のテキスト(歌詞)で歌われるのですが、聴衆が例え、全て歌詞が聴き取れる明解な発音で歌われたとしても、
その一語一語の意味、そして文章としての意味を理解することができなければ曲を聴く魅力は半減します。
英語の歌詞を日本語に訳することの大切さは想像する以上に大きな事柄であり、それは音楽の核心にも触れる重要なことです。
一字一句に至るまで検証を行いつつ、時代背景、人物観察、多言語に精通しての膨大な資料から得た知識によって訳された歌詞。
それを待ち望んでいた私にとって〈来るものが来た!〉、と一度封印した大曲を再演するには充分だと言える演奏の機会でした。〈名訳〉としての〈対訳〉があったればこそです。

 多国語を辞書を開きながらただ訳していくだけでは〈名訳〉とはなりません。
〈訳〉する視点、立ち位置が明瞭で、演奏する側がそれを真に理解、納得、同感を得なければ意味はありません。
テキスト(台本)を選んだ人物C.ジェネンズ、そしてそのテキストに曲を書いた巨匠G.F.ヘンデルの姿に真に迫るものを感じなければ演奏者としての立ち位置が決まらないことになります。
この訳を見事に成された田川建三氏(新約聖書学者)の視点ははっきりしています。
これまでの訳に誤訳を発見し、見直す作業は詳細な考察を記して氏の視点の結果を表します。「ヘンデルの音楽は平和を目指している」と。
聖書から抜き出したテキストでありながら、その世界に縛られることなく「人」としての平和を願う。
どの曲にも楽しさがある。とてつもなく高度な技術を必要とする難曲であっても底に流れるのは音楽が持つ優しさ楽しさ。
「受難」の辛く、悲痛な場面を描く曲でさえ、彼が描く音楽は徹底的に「人間的」な要素が強い。それも「楽しさ」を感じさせるものを含んで。

 演奏会は壮大な平和への祈りを世界に発して終曲の「アーメン・コーラス」を歌い上げました。
指揮をしながら思いました。
まだ見ぬこの地球上に住む人々の顔。
総人口70億以上。その人々への視点が問われると。どこに自分が居るのか。どこを見ようとしているのか。どこに向かって音楽を奏で、放とうとするか。
終曲後の沈黙、
ホールからの熱い視線を背中に感じ、ふっと我に戻って振り返ったときに見えたものは、少し興奮気味ながら「優しい笑顔の人、人、人」の顔でした。

 



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