八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.78


【掲載:2016/06/19(日)】

音楽旅歩き 第78回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

【音楽は人間の叡知の技・心の形・表れ】

 今年も演奏会は目白押し、休日を確保するのも困難なスケジュールが続いています。
「本番」と私たちが呼ぶところの演奏会は毎週一度という月もあり、練習も含めるとなるとほとんどお休みはありません。
その他にも頼まれる他団の演奏や、講座などもありますから、当たり前のことですが頭の中はそのための準備や演奏予定として控えている何曲もの譜面がグルグル回っているという有様です。
よくもまぁ、混乱せずに、体調も大きく崩すことなく続けて来られたものだと自分自身驚くことも度々です。
 音楽は職業ですが、音楽そのものが私、その私が生きていくための「糧」である、そう思っています。
しかし音楽が心の支え、好きであるということだけで通用するほどこの世界は甘いものでないことは明らか。
「思い」やその強さだけではだめで、そこには「演奏者」としての技術と表現力が不可欠で、演奏内容も多くの方々が認めるところの確かなものでなくてはなりません。
演奏者というものは聴いていただく方々があってこそ、その受け入れがあってこその存在です。
 当たり前すぎて書くのもはばかられるのですが、それは「修練を積む」ことなしには果たせない厳しい世界ということになります。
そこに身を置き、その中にあって音楽が「生きる糧」として、それも経済的なこと以上に、生きて行くためのエネルギー、精神的な支えとなっており、その音楽に毎日全身全霊まみえている状況は本当に幸せなことだと、ほどよい疲れの中感謝する日々です。
 いつも書くことですが、音を発信する音楽は人間だからこそできる能力です。
他の動物も似たような行動があるのですが、仲間同士の通信や恋の成就(じょうじゅ)のためだけでなく、生きていくための娯しみ、愉楽(ゆらく)ともなるような音楽は人間だけに与えられた神からの贈り物と思われるほどの奇跡の行いです。

 「生きる糧」となる音楽。
私にとってはそれは私自身を表す手段です。そして私自身の表れであるならば、そこには私の心も表れているはず。
丸裸になって立つ舞台、全ては透けて見えている状態の私だ、といつも思いながら演奏し続けています。
「恥ずかしながら」「恐れ入りながら」のステージなのですが、同時に私が私自身を確かめる場であって、演奏者と私と、そしてお聴きいただく方々とが一体になれたらとの願いの場でもあります。
人と人とが出会い、息づき、共に生きているという喜びと感謝の「生命の場」と成り得るものだと。

音楽は息そのものです。生命を維持している息そのものです。
楽器を奏しても、歌を歌っても、多人数での合唱であっても息そのものが音楽だといってよいでしょう。息を感じられない演奏は音楽ではないかもしれません。
その息は「心」で変動します。生命の維持を保ちながら、心の状態で息は変化しながら続けられています。
音楽は心の形、表れ。「慰霊の日」の演奏はその証しです。





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