八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.117


【掲載:2018/04/29(日)】

音楽旅歩き 第117回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

音楽に於ける「言葉」、それは最強の世界語です

 前号で言葉の軽さ、軽はずみについて書きました。
少しこれに関連するのですが、つい先頃東京で演奏会をした折りの「演奏にあたって」から引用してもう一度「言葉」の問題を今回書きたいと思いました。
「演奏にあたって」と題した文を転用します。

 『音楽は言葉から始まった。最初は通信用(コミュニケーション)に石を叩いたり、木を叩いたりして仲間に何かを伝えようとリズムを打ったかもしれない。
喜びや、踊りでもって足で地を飛び跳ねたことがそれらの元になったのでしょう。
それらのリズムがまだ言葉となっていなかった人類の初めでも、うめき声や、それぞれの感情によっての唸り声が様々な強さ、イントネーションを持ち、それらをリズムに変えて何かを打ち鳴らした。そう考えられます。
 いよいよ、言葉を持つようになった人類は、それを「歌」に発展させていったのではないか。
とてもシンプル過ぎるほどの乱暴なまとめ方かもしれませんが、私はそのことがとても大事なような気がしています。
音楽は言葉から始まった。とすると、作曲するにも演奏するにも「言葉」が如何に重要なことか。言葉に始まり言葉で終わる、くどいようですが、それが音楽なのだと思うのです。今日演奏される曲に付けられた言葉が作曲家の心を通して、そして私たちの心によって、皆様の心に届くことができれば、そこに「人類」としての最大の繋がり、意味を見つけたいと望みます。』​

​  そして演奏する曲を解説しています。

 『トマス・タリス(1505年頃 - 1585)16世紀イングランド王国の作曲家、オルガン奏者。
今回演奏する《「エレミアの哀歌」》は、祖国を失った民、エルサレムの陥落とエルサレム神殿の破壊を嘆く歌であり、バビロン捕囚の時代につくられたものと考えられている。

 ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー(1839- 1901)《降臨節のための9つのモテット op.176より》ドイツの作曲家でオルガン奏者、指揮者、教育者としても活躍。
その重厚なハーモニーと深さに魅了されます。
しかしながら、あえて問題性を言うならばラテン語のテキストによるモテトは言葉とメロディーとがしっくりいかないところもあり、
指揮するものとして戸惑いを得ることがある、と告白しておきます。

 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913 - 2000)《混声合唱曲「心象スケッチ」(宮沢賢治)》
言葉としての新しい表現をしてみたい、それが40代の私の目的でした。
ドイツ語、ラテン語を中心として演奏してきた私が、その最終目標である日本語に挑戦した時代です。
幾人かの邦人作曲家の曲を演奏することになるのですが、その中のお一人が高田三郎作品でした。
宮沢賢治の詩に思いが滾(たぎ)ります。
賢治さんの思いに寄り添いたいとの気持ちが強いです。』

と結んだのですが、結果は聴衆にも伝わったものとして「言葉」の強さを感じさせられました。
音楽に於ける「言葉」、それは最強の世界語です。





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