八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.257


【掲載:2025/09/07(日)】

音楽旅歩き 第257回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

【宮澤賢治の「青の修羅」と「青の怒り」を重ねる】

 今、宮澤賢治の詩による合唱作品を取り上げ、コンサートの準備が進められています。
宮澤賢治は私にとって欠かせぬ「人」になっています。最初の出会いは小学生の時に観た映画「風の又三郎」です。
内容は良く解らなかったのですが、そこで歌われていたメロディーが今以て忘れられません。
賢治の「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」は有名ですね。
「よだかの星」で私は確信を持ちました。きっと私には必要な「人」になると。

 詩集「春と修羅」はその後に読んだことで〈すっと〉身体に響きましたね。
自然観・人生観・倫理・宗教的感性、それは賢治が行き着いた思想の深さ、文学でした。
挫折を繰り返しながら「理想郷」を求めた人生。
妹の死が大きく文学に影響を与えつつ、同じ「肺結核」で(妹トシの病気は公には記録が残っていないようですが)賢治は37歳でこの世を去ります。
自身を「青い修羅」と捉える生き方が私の心と共振します。
人間の煩悩に悩み続けた賢治、その道を「青」という象徴(清浄・悲しみ・孤独)と捉えた人生に胸が締め付けられます。
現実に疲れた時、ほっとする時間を持つ。賢治の作品には幾つもの示唆があって惹きつけられています。

「星」を見る。人間の小ささを示され、同時に理想への道を結ぶ橋だと感じさせる。
「花」、それは自然の循環(季節)との深い関係、共生を感じさせる。
「風」、そのささやき、唸りが、心の動きを感じさせる。
「波」、海と波の音は遠い過去からの記憶。それは大きく包まれる感覚であり、未知への憧れ。
「世」に疲れたとき、これらを観て、聴いて〈自分を取り戻す〉〈自分になれる〉。

 賢治は「青い修羅」となって歩んだ。そして私は「青い怒り」を持って人生の理想郷を求めて歩む。
私はこうして「宮澤賢治の詩」に〈私を投影する〉という不遜な思いに浸るのです。

 コンサートに時折「宮澤賢治」を取り上げるのは、私にとって必然です。
私が私自身に戻り、大きな愛に包まれるかのようにステージに立つことができるからです。
世の中荒れ狂っていると感じませんか。特に〈人の人に対しての優しさ〉が無くなっているような気がしてなりません。
「畏敬」や「信じること」が薄く、軽くなっています。
人が見えていない、見ようとしていないとの思いです。周りから眼に見えない、圧力、縛りがかかっていることにも気付かない風です。
賢治はずっと文学で追い続けました。自らを〈穀潰し(ごくつぶし)〉と呼び、負い目の中で息を引き取ります。
道半ばで力尽きたかのように眠りに入りました。
残ったのは数え切れない詩や言葉。ノートは生きながらえて多くの人の心の中に遺りました。賢治は生きています。
今、私たちを取り巻く「星・花・風・波」は異常気象の影響を受けて人間を不安の境地へ誘います。
しかしながら願いましょう。一心に祈りましょう。
賢治は「永訣の朝」の中で叫びます。「わたくしのすべてのさいわいをかけてねがう」と。
理想郷を臨む、それは今、人の心の中で荒れ狂う風が収まるよう願うことです。





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