八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.256


【掲載:2025/08/24(日)】

音楽旅歩き 第256回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

【人は自然があってこそ繁栄する 人が中心になっていないだろうか?】

 石垣島を久しぶりに訪れ、「本当に良かった」と思ってから二週間が経ちました。
大阪、京都、名古屋、東京、そして1泊だけ訪れた三島の町。忙しさは半端なく続きちょっとお疲れです。
音楽の現場では楽しいと共に伝えることの難しさと格闘です。
言葉は大事、伝えるには言葉を選び、より相応しい言葉を発見しなければなりません。
この格闘が私には発見の喜びだけではない、辛さを持ちます。
「音楽だけで十分、伝わるではないか」との思いが強いだけに、辛さもまた募(つの)るのでしょう。

 しかし、受け手に同じ音楽が通じると思うことは、ある意味傲慢なことかもしれないですね。
だからこそ、それを言葉が仲介する。言葉が音楽を助ける、ということでしょう。
練習時、言葉探しをするのですが、そのためには言葉の意味をハッキリと自身に内実していなければ、そしてイメージが幾つも浮かばなければ言葉は出てこないのですね。
演奏者が「感じる」がないと聴き手にも伝わらない。そんな当たり前の事で毎日四苦八苦していました。
夜、寝る前が怖くなりました。「今夜、寝られるだろうか?」いつも夢の中でも言葉が格闘しています。
夢の中では人と言い合っていることが多いです。その中で具体的な言葉探しをしているのでしょう。
朝には幾つかの悩んでいた言葉を発見していることがあるのですから、「私は寝ているんだろうか?」と自問自答です。
朝の目覚めは戦い後の疲れです。そしてまた新たな、しかし同じ悩みの一日が始まるのです。

 音楽の練習に疲れ、一時の「癒し」を求めて静かな環境の中での「景色」に「美食」。
脳を休ませなければ次へと進めません。
本当に「脳をやすめる」とは成らないことを十分に自覚しながら、とにかく環境を変えることで休ませてあげるのは身体の役目でしょう。
三島の町がその場所でした。富士山の恵み、雪解け水の美味しいこと。
そしてその水を使って作られた野菜がまた格別。それらの自然を守ろうと、町全体が静かな佇(たたず)まいを保つ。
町の真ん中を流れる伏流水による「源兵衛川」の散策道は現実を少し忘れさせてくれる。
そんな町に「移り住みたい!」と思わず同行者に口走ってしまいました。

 話は石垣島に戻ります。私が帰阪してから昔の仲間が久しぶりに島を訪れたようです。
その彼からメールで「あまりの変わりように戸惑っている」というような意味の感想が送られて来たようです。
「あそこはどうなっている?あの人はどうなっている?」との戸惑いが伝わってきます。
確かに今回訪れた島は二年間で変化していました。
私が関心があったのは「人」でしたから、変化を余り感じなかったのでしょうが、島全体は何だか日本中何処にでも見受けられる「街」になっているようで、「またですか」との思い。
島はこれからも「都会」に近づいて行くのでしょうか。寂しい・・・・・・と思う私です。
自然の恵みが沢山あるのに、人が中心になっていっている。
人は自然があってこそ繁栄する、と私は強く思うのですが。





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