デジタル教科書・教材

(お詫び)この記事は、とても長いです。すみません。
基本的に、以下についてはつまみ食いでご利用いただけるように書いたつもりです。
でも、この記事のきっかけはお読み頂ければと思います。

この記事のきっかけ

私の周りで何人かが話題にしていた本

「ほんとうにいいの?デジタル教科書」(新井紀子著、岩波ブックレット No.859)

を読んで、各項目毎に難しくなく手短に書かれていて一般向けに有用であるが、
同時に誤解を招きかねない、注意の必要な本だと感じたことが、
本記事のきっかけである。

どの点で誤解を招きかねないと感じたか。
第一に、「はじめに」で、現状は公平さが欠けているから『平等に理解可能な状態で解放されているべき』(p.3)と書いてあるが、
この本自体に、公平とは言い難い部分が多くある。
第二に、新井紀子氏は「デジタル教科書の導入」=「紙をデジタルに置き換える」と考えている節がある。
しかし、その考えを持っている人は私の周りには少なく、学校現場に冷静に見れば、そんなこと不可能だし弊害が多い。

しかし、一般人が学校現場を観察する機会は少なく、
この本によって間違った認識を持ってしまう危険性も十分にありうる。
一方、私が公開している現段階のデジタル教科書の概要なんかより、よほど突っ込んで項目ごとに書いてある。

また、私事ではあるが、新井紀子氏とは日本数学協会の掲示板でデジタル教科書について議論をしたことがあった。
確か数回やり取りしたが、議論は道半ばで終わっていた。

そういうわけで、私なりに、感じたことを書き出すことにした。

なお、ちょうど昨日、林向達先生が、こんな書評を書かれた。参考になると思います。
とりわけ前半部分は、公平さと直結する部分だが、私も勉強不足でした。感謝です。

「はじめに − 平等に是非を議論するために」より

p.2(「デジタル教科書の導入」=「紙がデジタルで置き換わる」という大きな誤解)

『明治以降、私たちは紙の教科書で授業を受けてきた。それがデジタルに置き換わるとするならば、学校教育に大きな変化をもたらすに違いない。』

冒頭のページにあるこの一文に、注意が必要だと思う。
この書き方からは「デジタル教科書の導入」=「紙がデジタルで置き換わる」と読む人がいるのではないか。

私の知る限り、デジタル教科書の利点欠点を考えている人たちの多くは
私が最もよく見ているデジ教研でも、おそらく最もデジタル教科書を推進している団体のDiTTも、
「デジタル教科書の導入」=「紙がデジタルで置き換わる」と考えてはいない。

たとえばDiTTは、2012年6月に提案した『デジタル教科書法案 概要』*1において、以下の3つをいずれも可能とする方針だと書いている。

  1. 『紙の教科書のみの利用』
  2. 『紙の教科書とデジタル教科書の併用』
  3. 『デジタル教科書のみの利用』

デジ教研で議論してきた人は「置き換わる」というイメージはあまり持っていないと想像している。「紙にデジタルが加わり、よいとこどりを目指す」のイメージではないか。
私も「置き換わる」のであれば、少なくともこの10年以内なら反対。技術はまだ紙を超えられない。

新井氏は、この一文を本の冒頭に置くことによって「最も危険な導入に警鐘を鳴らす」意図を込めていたのかもしれない。
しかし、どうにもこの後の文章を読んでいると、新井氏は「デジタル教科書の導入」=「紙がデジタルで置き換わる」のイメージで本を書かれている印象を、私は持った。
根拠は追々書いていく。

p.3

2行目『見慣れないカタカナ語が氾濫している』
8行目『専門家と称する人々に尋ねたりしたら・・・冷笑されてさらに横文字を並べられるかのどちらかである。』

正直、この段落を読んで、新井氏はどんな悪い人を想定しているのかと感じた。
デジ教研のFaccebookグループならば、そういうのはないだろうに・・・
専門語が出てくれば、誰かが聞いて誰かが答える、または発言者がフォローしていることが多い。

ただ、新井氏にこういうことを書かせるような何かがこの世に存在するのだろうと、注意したいとは思った。

「1 「デジタル教科書」とはどのようなものか」より

p.5,6 「デジタル教科書の構成要素」

ある意味では、この4要素『ハードウェア』『ソフトウェア』『コンテンツ』『ネットワーク』ですべて。
しかし私はここに、少なくとも、(デジタル教科書を利用する)人を加え、5要素で考えるべきでないかと思う。
利用者とそのコミュニティ(クラス単位、学年単位、・・・など)はどうあるべきか、サポートする人たちの仕組みなどはどうするか、など。

そうしないから、デジタルが無機質に感じられるような気が、私はしている。

p.7 最後の段落

『新しいメディアが登場すると、そのメディアでは学習がうまく進まない子どもが必ず、ある確率で発見される』
『要点しか書かれていないパワーポイントではまったく理解ができないという数学者』

私も、要点しか書かれていないパワーポイントでは、数学の場合、まったく理解できない人間である。
その経験から、新井氏の出された数学者の例は、数学者の問題ではなく、パワポには向かない内容がパワポで説明されているだけ、つまり、説明者の問題かもしれない。

そしてなにより、この問題は「紙をデジタルで置き換える」なら大問題だが、「紙とデジタルのよいとこどり」ならば、さほど問題なのだろうか。デジタルに向かない内容は、紙でやればいい。

p.8

『デジタル化によって恩恵を受ける弱者もいる。逆にデジタル化が新たな弱者を生むこともある。デジタルによって可能になることもあれば、失うこともある。誰にでもやさしい万能なメディア……など、基本的には存在しない』

まったく正しいと思う。ただ、これがデジタルにストップをかける理由にはならない。

この本にもある通り、ディスクレシアという「紙では学習がうまくできない子ども」が世の中には一定数存在するが、デジタルの機能で学習できる可能性がある*2
だから、デジタルの「導入」は、「学習がうまくできない子ども」を減らす面もある。

結局、「学習がうまくできない子ども」の増減は、総数で考えるべきだろう。

とはいえ、そもそも、「紙をデジタルへ置き換え」でなく、「紙とデジタルのよいとこどり」を考えていくなら、注意されるべき問題程度のものではないか。

『誰にでもやさしいメディア』・・・現実には困難が多いでしょうが、技術に期待したいです。昔は、紙だって、誰にでもやさしいメディアではなかったのですから。

p.11前半

廉価版のタブレットの例が書かれている。
ただ、この手の話は、予想が難しいことに注意すべき。タブレット端末がここまで世の中を席巻していることを、4年前に誰が予想したか(4年前はタブレット端末はほぼない)。

私としては、たとえば、こう書きたい。
「現場にとって、どのような機能が端末に必要か、または外付け機能として必要か議論し、それが予算の範囲内に収まる値段で作れるようになってから、導入に入るようにしてほしい。導入ありきでは結局長続きしない。」

p.12

7-8行目『文部科学省は、デジタル教科書が・・・ハードウェアまで含むのか、明確な結論を出していない。』

これは、案外注目されていない。DiTTの議論はこの点を踏まえて財政措置案を提示している*3が、予算を考えるうえで重要である。

p.12

後ろから2,3行目『(デジタル端末導入の是非について、保護者に聞いたとき)「ハードウェアが有償であってもデジタル教科書導入に賛成するか」「紙の教科書を無くしてデジタル教科書で代替することに賛成するか」の質問項目はなかった』

これも重要な視点で、今後実現されてほしい。

p.13

9,10行目(検定教科書という概念をなくしたうえで)『教科書や教材の作製を・・・有志の手によって自由に作らせてはどうか、という意見も存在する。ウィキペディアなどネット上の有志によるコンテンツ作りが一定の評価を得ている現在・・・』

こういう極端な意見があるのだと少し驚いた。誰からの意見で、どれくらい存在するのだろうか。私はデジ教研でもDiTTの発表でも国からの資料でも見たことがない。
私も、高校数学の検定外教科書を作って公開しているわけだが、これも最終的には検定にかけたいと考えての作業である。

なお、教科書の検定については、現在の形が自然に思われてしまいそうだが、実際には、戦後だけでも紆余曲折を経ている(現在の形は当初暫定的なはずだった、とか、家永教科書裁判とか)。
これらを知ることは、デジタル教科書を教科書検定の面から考えるとき、必ず知るべきことと思う。

p.14

真ん中あたり、韓国の研究結果について否定した後、経験論から、デジタル機器の端末は目や精神への負担があるという指摘につなげているが、これはさすがに、韓国の研究結果に対して失礼ではないか。
経験論を根拠に否定するなら、せめて、どの研究結果の事で、ここがこうダメだと指摘したうえで否定するのが礼儀ではないだろうか。

ちなみに、厚生労働省は、労働環境におけるデジタル機器の利用について「VDT(Visual Display Terminals)作業における労働衛生管理のガイドライン」(平成14 年)を作っている。このことは文部科学省も言及している*4
国がきちんと、研究結果に基づいたガイドラインを出してくれることを期待したい。

p.15

2段落目『ひと目で全体を隅々まで見渡すことができる、という一覧性』

これは、デジタル教科書端末には、確かに必要と思う。

p.17 3行目

『切り捨てられると理解を深めたり、思考をスムーズに表現したりするうえで障害になりうるファクター・・・・・・それらを無視して、教育や学習をデザインしてはならない。』

とても重要な指摘と思う。
これらを分かりやすく考えるための研究結果が、デジタル教科書に関する研究のハブを目指している日本デジタル教科書学会に集まればと思っている。

p.17, 7行目

『ハードウェアだけでなく、「デジタル」には様々な制約がある。』

たしかにそうだが、「紙」でも同じではないか。だから、これはデジタルを否定する根拠にはなりえない。
なにより、この一言が出てきたのは「紙をデジタルに置き換える」という新井氏のイメージが原因と思う。
実際、この項目は『代替することは難しい』で閉じられている(p.20)。

「紙とデジタルの良いとこどり」なら、デジタルの制約は何の問題もない。

p.21 デジタルノートの問題点

デジタルノートでは、反応が0.1秒遅れるとか、鉛筆より正確にコントロールできない、あたりが問題なのは、同意。
だから私も、これらが解決されない限りは、ノートをデジタルに置き換えるのは反対。

だから、デジ教研でも「ノートは紙が基本、ただし端末内のデジタル教科書へ(メモなどを目的に)書き込むことはできる」といった議論が、1年位前から主流になっていると思う。

p.24

これは、たまげた。2行目にデジタルノートを

『毎時間、途中経過も含めて一年分保存』

とあり、そのデータの活用法として

『自分の教え子のノートを三五人分、毎日チェックする』

とある。こんなことのために途中のデータを使うと想定している人はいるのだろうか?
よほど、現場を知らない人から、デジタル教科書の活用法をレクチャーされたのだろうと、思う。

この利用法からデジタルの導入に批判、の議論を展開するならば、
公平を期すため「紙のノートを毎時間途中経過も含めてすべて保存して、先生がチェックする」作業の手間と比べるべきではないか。

誰もそんなことをしようとは思わないだろうけど。
生徒としても、毎日ノートが持ち帰れず、復習できないことになってしまう。

「2 ソフトウェアから見た問題」

p.27-31, 文章の理解とリンクの関係

この実験については重要。ただ、ここから

『ハイパーリンクの存在によって読みを助けられるというケースは、想像以上に少ない』

と結論付けるのはどうか。
この本では、ハイパーリンクが無意味ないし邪魔な例として、文学作品、数学の「無理数」の説明、があげられている。
しかし私には、論理の飛躍に感じる。
この2例は、ハイパーリンクが最も不必要なケースの類ではないか。
新井氏の書かれる『想像』とはなんだったのだろうか。

また、

『参照可能な情報が増えることが必ずしも理解を助けない』

ような例として、文学作品で

『「紅茶」「蜂蜜」「ミルク」「自由」「機械技師」・・・にリンクが張られていたと考えよう』(p.29)

とある。これは、なんという非現実的な具体例だろうか。
そんなところに辞書へリンクを張った教科書なんて、私はデジタル教科書失格と思う。
日本の教科書会社が、そんな質の低いものを作るだろうか?

大事なことは「どのような時にリンクを張り、どのような時に張らないか」の検証であり、
また、「生徒がリンクを辿れることを許可・禁止を先生が切り替えられるようにする機能(生徒が読むことに集中できるように)」の検討などではないか。

以上、ここの記述は、私には「デジタル教科書の否定ありき」で書かれたとしか思えない。

p.33

3行目から

『この原稿を書いている間にも、メールソフトから、フェイスブックから・・・数十秒ごとに・・・お知らせ(アラート)が表示される。・・・最近の典型的なコンピュータの使い方』

と紹介され、その影響が論じられているが・・・
これは、最近の典型的なコンピュータの使い方なのか?
私は、まずそういう機能は全て切り、必要な時だけアラート機能を使うようにしている。
新井氏の書かれている通り、マルチタスクが脳の機能を低くすると、経験的に知っているからである。『ワーキングメモリを無駄に使わない』(p.35)ようにしたいからである。

確かに、アプリ等の設定を間違えると、コンピュータのアラームだらけで集中力がそがれる。
ならばアプリの設定を替えれば良い。どう替えれば良いか分からなければ、ネットで検索すればよい。
そういうことを、学校で子どもに教えればよいのではないか?これは学校外でも、実生活で役立つだろう。
実際、新井氏のように、アラート機能で集中力をそがれている子どもは、いる。時々私も子供からアプリの設定について聞かれて教える。
(もっともこれは、デジタル教科書の導入というより、情報教育の分野で議論されるべき内容であろうか)

p.36

最後の段落の内容は極めて重要だと思った。
我々は、消費者向けのインタフェイスを模倣していない教育ソフトウェアを、正しく見分け、評価できるようにならなければならない。

ただ、ちょっとこの断定の仕方は、教育ソフトウェアを作っている人に気分の良くないものではないかな、という気はする。
それに、紙教材においても(紙の参考書を作っている)教材会社の人が教育現場を全く知らないまま教材を作り売り出している、なんてのは当たり前である(または、だった。ここ数年でぐっと良くなったとは思う)。

いずれにせよ、私は、教育ソフトウェア開発の人と、現場教員がもっともっと近しくなるべきだと思うし、本書も、そういう建設的な提案をしてほしかった。

「3 デジタルコンテンツと学びの質」より

p.38

手書き入力うんぬんのことが書かれているが、このあたりは私も難しいと思うので、私も、紙のノートはまだ残ると思っている。

もっとも、p.39に書いてあるような『式の変形問題や証明問題』までデジタルにやらせる必要はあるのか。ここにも「紙をデジタルで置き換える」というイメージが邪魔をしていると感じる。
デジタルが苦手な部分は、人がやればいい。

p.42

1-2行目『ゲーム上で問われる問題と、ゲームの上での問題解決の間になんら意味のある関係を見出し得ない』

シューティングゲーム系の学習ツールには、過剰な期待をしないようにしたい。でも、大半の子供は、そんな期待していないと思うが。

なお、現在の脳トレはもちろんのこと、ゲームと教育のコラボは昔から多い。
この点について、デジ教研でも学習会を行った(第1回ウォール学習会 ゲーミフィケーションの基礎と仕組み〜学習コンテンツとゲーム性について考える)。参考になるのではと思う。

p.45

最後から2行目『「学び」が・・・量的評価可能なものの中にのみ存する考えるのであれば・・・』

なぜ、新井氏はこうも極端なのか?量的評価可能なものだけでも分かることもあるだろう。
そして「機械がまとめてくれた量的評価可能なもののみで判断しないこと」を現場教員が注意するこそ、重要ではないか。また、そのための仕組みが議論されるべきではないか。

p.46

最後の段落 ここの段落の内容はちょっとびっくりしました。

『統計的な「傾向」は必ずしも因果関係を示すわけではない』ことは確かに重要。13th-note数学I教科書の第4章でも最後に触れている。
でも、そういう統計の事をよく知っていますのような書き方をしたうえで、最後の一文はいかがなものか。

統計結果が「上がった」からといって、「必ず上がる」わけではない。そんなの当たり前である。
そのリスクを踏まえたうえで利用されるのが、統計結果ではないのか?

そういう論理で警鐘を鳴らすのは、どうかと思う。

p.47

ここで紹介されている『レポート自動採点システム』をデジタル教科書に搭載しようと思っている人は、私は今のところ、知らない。
初等中等教育の学校現場で教えている人で、このシステムに期待している人がいたら、教えてほしい。

このシステムの紹介によってデジタル教科書へ警鐘を鳴らすのは、理解できない。
こんなシステムが学校現場に使われるよう強制されるなら、私はデジタル教科書に反対する。
多くの、デジタル教科書の利点欠点を議論している人も、同じ意見じゃないかと私は予想している。

「4 ネットワーク配備をめぐる政治状況」より

p.54,55あたり

デジタル教科書の整備が、学校に光回線を引くための手段である、という話は、他でも私は聞いたことはある。
それが本気の話か、一部の人が言っているだけの話かは、私にはちょっと分からない。

また、高校への配備を先にしないのか、という点については、私は「小中高すべてやろうとすべき」と考えている。
優先順位が高校からというのも賛成。理由は、高校の方がやりやすいから。
(一般に、年齢が下がるほど、整備されるべき環境は制限が付く傾向があると思う)

ただ、『入試に有利とは思えない情報教育に高校があまり関心を持たないという事情』(p.56)は、相当にでかいと思う。

もう一点として、小中の教材は作りやすい(作り手が多い)けど、高校の教材は作りにくい、という点も、あるように思う。
塾業界において、小中向けの教材の数と、高校向けの教材の数の差は、とても大きい。
正確には、高校向けの教材は、大手の予備校などだけが自前で作るないし出版していて、それに負けないものを他で作るのは難しい。
作っても、付加価値が高いため、門外不出のような形にしているのではないか。

p.58 ネットワークの回線の太さの話について

私の思った案。現場の先生の端末に「今、学校全体の回線はこれくらい余っている」かが分かるメモリを作ってはどうか。

「今からみんな、このURL開いて動画見てね」と言う前に、自分の端末を見て
「40人分の動画ストリーミングが可能なだけ空いているか」ランプが赤信号なら、「今、ちょっと無理だから、先にこれを学習しようか」みたいなことができ、いろいろ便利では。

「5 教育の「クラウド化」と予算」より

p.62

真ん中くらい, クラウドサービスが突然打ち切られる危険性は、確かにリスクとして考慮されるべき。
そういうリスクがないようにできる契約をするような形になってほしい。

p.63 冒頭の段落

『デジタル教科書等のコンテンツをクラウド上に置き』
これやってたら大変でしょう。
こういうコンテンツは、外部サーバーにアクセスしない仕組みを作ればいいのでは。
(たとえば、クラス内のネットワークを用い、教室内のストレージからダウンロードできるとか)

p.65

後ろから7−6行目『教育のデジタル化を経済成長の「起爆剤」にと主張』

ちゃんと確認できてないが、この主張の真意は「教育のデジタル化によって、デジタルが持っている利点欠点を正しく理解した子どもが育ち、20,30年後のデジタル社会を担う大人たちが育ってくる」ことを願っての「起爆剤」ではないのか。
デジタル教科書がもたらす市場くらいで、経済成長の起爆剤にはならないことくらい、少し考えれば分かる。

「おわりに − デジタルへの興奮を自覚的に鎮める」より

p.68

7行目からの段落にあるような夢想を、どれくらいの現場教員が持っているだろうか?デジタル教科書に可能性を感じている人のどれくらいが、夢想しているだろうか?
正直、ぜひ、デジ教研の議論に参加してほしいと思った。
デジ教研の存在は、日本数学協会の掲示板で、私は何度か書いてきたのだが。
新井氏の見聞きしている情報よりはるかに、地に足を付いた議論がなされていると、実感していただけると思う。
そして、「拙速でないデジタル教科書の導入」に向け、建設的な議論をしていけるのではないかと、私は考えている。

この記事の終わりに

本というメディアの影響は、やはり大きい。
たとえば、田原総一朗「デジタル教育は日本を滅ぼす」という本がある。これによって、田原氏が今でもデジタル教科書は日本を滅ぼすという考えを持っている、と思っている人が今でもいる。
紙の本は自動アップデートできない。

そういう意味では、Webページは本より融通が利く。
「以前はこうだったが、今はこうなりましたor考えを改めましたすみません」のようにWebページを更新すれば、誤解を止める可能性が出てくる(だからといっていい加減なことを書いていいわけではない)。

結局、主張には、本で発表されるにふさわしいものと、デジタルで発表されるにふさわしいものがあるのではないか。
これも、紙とデジタルの良いとこどりの一例である。
新井氏のこの本に出てくる「デジタル教科書推進派」とは異なった、デジタル教科書に期待を寄せる人たち(現場教員含めて)がいろいろいて、日々議論していることを、知ってもらえたら幸いである。

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*1 DiTT「教育の情報化 現状と課題レポート, p.46
*2 たとえば、みんなのデジタル教科書教育研究会(デジ教研)埼玉ミーティング 講演録 「DAISYとEPUBで実現するデジタル教科書のユニバーサルデザイン」(2011.11.13)
*3 DiTT「教育の情報化 現状と課題レポート, p.49,50
*4 「教育の情報化ビジョン」,p.12脚注40

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Last-modified: 2014-08-24 (日) 01:00