八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.72


【掲載:2016/02/25(木曜日)】

やいま千思万想(第72回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

「人」が音楽をつくる「音楽」が人をつくる(10)

 前回、我が国の音楽界の重鎮であり、今年生誕100年、没後20年を迎えた柴田南雄氏のことを書きました。
今回はその第二回目です。
実は柴田氏のシアーターピース「人間と死」を今年7月3日に再演することになっているので、ご紹介を兼ねて書いてみることにしました。
シアターピースとは、ステージのみならず客席や通路を含む劇場空間全体を活用しようとする演奏のこと。
これに関してはNo.54(2015年5月29日)のコラムで千原英喜作曲「種山ヶ原の夜の歌(異伝・原体剣舞連)」でも取り上げたのですが、今回は本家本元である柴田作品での演奏です。
前述の千原作品も「柴田作品」に触発されて書かれたものでした。

 「人間と死」、それは人間は「死」が近づくときそれをどう捉え、何を考え、何を語るかをテーマとした作品です。
 曲をたどっていきましょう。
始め(プロローグ)に、セネカ(1世紀のローマの哲人)の「人生の短さについて」から一部を歌うことで「死」の意味を導き、つづいて第一章で3群の合唱による3種類の死を描写します。
3種類の死は、それぞれ文学作品からテキストが選ばれていて、一つには20世紀を代表するオーストリアの詩人リルケ「マルテの手記」の暴虐の限りをつくした死を。
二つには宮沢賢治「青森挽歌」による妹トシの静かな死。
そして三つ目には街路の喧騒(けんそう)の中、突然襲いかかってくる死をスペインの詩人ロルカによる『カンテ・ホンドの詩』から「ソレアの唄」のテキストを用いて歌われます。
 続く第二章はこの作品の白眉、クライマックス。西洋世界をあらわす第1グループと東洋世界をあらわす第2グループとに別れて、それぞれに「死」の意味づけを行います。
グレゴリオ聖歌、スペインの詩人マンリーケ「父の死を悼む歌」、声明、理趣経(りしゅきょう)、そして平安時代の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」といった歌や言葉がそこかしこから響き渡ります。
まさに西洋と東洋との響きが混ざる不思議の世界です。
この章でシアターピースとしての醍醐味を十二分に味わうことができるのですね。
 最終章のテキストはアルゼンチンの詩人、ホルヘ・ルイス・ボルヘス「幽冥礼讃(ゆうめいらいさん)」から選ばれ、「生」から「死」へと向かいながら、透明な響きのなかに「まもなく私は知るだろう、私が誰であるかを」・・・・と唱えて終えます。

縦横無尽に時空を駆け巡る博学多識によったテキスト。そして音楽も中世から現代までの様式を用いて独自の世界、音響を繰り広げる。
それはまた西洋と東洋、その文化比較といった観点からも捉えられて妙味、奥が深い。
ホールに響きが溢れます。
音源がステージ上で移動し、客席で移動し、混ざり、交差し、共鳴し合います。
これはもう例えようもない忘我、恍惚の世界と紙一重。
その中にあってホール全体が時空を超えて人間の生と死を想う。
「柴田南雄」、我が国音楽史上忘れる事のできない作曲家です。





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