八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.149


【掲載:2019/7/04(木曜日)】

やいま千思万想(第149回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

古稀」を迎えて改めて時の刻みの尊さを思います

   先月、6月20日に「古稀」を迎えました。70歳になったのですね。戦後4年目に生を受けました。団塊世代ということになります。
振り返って見ればヨチヨチ歩きだったかもしれない「民主主義」の教育に始まり、その後大きな事件となった安保闘争の頃には大学生。
しかしその時期はそれらの運動を横目に大学の練習室に一日中閉じこもってピアノを弾くという外目には暢気な青春期(しかしその時代は、自身との壮絶な闘いの時代。
またそれに伴って色々と襲ってきた運命と呼ぶべき事柄が引き起こす軋(きし)みも相当でしたね)。
そして学びの時期を経て、社会に飛び出してからもひたすら「音楽」の道をまっしぐら。
その間は、その〈界〉というか〈領域〉の中に大きな矛盾を感じながら悩みもがく熱血(外見は温和しい!)の若き音楽闘士の時期だったと省みます。

 そんな情熱を燃やす若い時から半世紀……、約50年が経ち、現在に至っているということでしょうか。
現在の日本、それは歴史的に見てとても大きなうねりの真っ只中にあるように感じますね。
世界を見渡してもそう思うのですが、いかがでしょう。
しかしそのような中にあってもこれまでのように私は、自室と練習場、そしてホールという場を回転木馬のようにぐるぐると回りながら、時には吐息も吐きながら精一杯〈息〉をしているといった様です。
今も音楽を通して何かと闘っているのでしょう。
私は常に「外」が気になります。
しかし性格なんでしょうね。真っ先には「外」に身を置かず、先ずは自身の心の中をゆっくりとのぞき込み、そこから発する衝動であるとか問題性を「外」と比べようとして「社会」を見つめます。
そして何かに気づく、あるいは〈ふんまんやるかたない〉ことがあったとしても決して社会の中で起こっている「○○運動」と呼ばれるようなものには入らず、染まらず、
いつも一定の距離を保つように自身と他とを考えようとします。私の立っている位置は何処なのか、また何処へ向かおうとしているのか。
それを先ず確かめ、考えたいと思うようですね。で、結果はいつも同じ。
私の心を表すものは、あるいは求めようとするものは「音楽」の中にあるのだということ。
その姿勢を貫く人生だったと振り返ります。

 向かう先への情熱は今も変わらずにあると思っています。〈情熱〉は常に音楽より発し、そして音楽に帰する、ですね。
人の一生って長いようで短いですか?それとも短いようで長いですか?
生を受けてから人は一体どれ程様々な多くの「秒」を刻んできたことでしょう。
その一瞬一瞬が短いように感じることがあったとしても実はとてつもなく価値ある長い時の刻みであったかも知れないのですね。
良かったことも、良くなかったことも、心地良いものも、心地良くなかったものも、その刻みはとても尊いものだったのだ、と思えてなりません。
「古稀」を迎えての残りの人生、それを確かめるものでありたいと思う現在です。

 



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