八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.156


【掲載:2019/10/24(木曜日)】

やいま千思万想(第156回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

今、生きている喜びを称え合う「レクイエム(鎮魂曲)」

   この歳になると多くの人を御見送りすることになります。
親族もいますし、友人や先生方。その数だけ悲しみがあるわけですが、その中でも私と共に活動してきた人がこの世を去る悲しみは言葉にならない心痛です。
これまで、練習時や講義などの機会に言ってきました。
「私より若い人が先だってはいけません。歳の順にお別れするのが自然の理です」と。
また「死後の世界がどんなものか私には解りません。
天国や地獄かもしれない。しかし私はそんなものは無いと思っています。
『無』です。何も無いのです。」「生きている者にとって大切な事は、残った者がどのようにその死を受け止め〈どう生きるか〉です」と。
「生きている者同士、どのようにその死を〈活かすか〉にかかっている、それが私にとっての「死」の意味です」と。

 このコラム原稿を書いている数日前に私が主宰する演奏団体のオルガニストが、がんのため亡くなりました。
長い闘病生活でした。松原晴美、気丈でした。
骨太のその演奏は男でさえ大変なコンソール(演奏席のことで、複数の鍵盤とボタン類が多く並ぶ場所)での操作、
華奢(きゃしゃ)な身体からは想像できないほどたくましく操(あやつ)っていた姿が忘れられません。
最後まで生きたいとの思いを周りに語り続けていたようです。
きっとお父さんより早く逝きたくなかったのだと思います。
彼女の笑顔が素敵でした。忘れることのできない微笑みでした。
私は通夜にも御葬式にも行きませんでした、いや、行けませんでした。
見送ることをしたくなかったからです。私の中に、私が生きている限り彼女は生き続けます。
そして生き続けているのならば私を通して次なる世代、人たちに彼女の生きたことを伝えることができる筈です。
これが生き残っている私の役目の一つだと信じています。

 亡くなった日の3日後演奏会がありました。
そのプログラムでは「レクイエム(鎮魂曲)」を最後に演奏する予定でした。何という事でしょう。
プログラムは今年のはじめ頃に決められたこと。
『人は皆死ぬ。現在ではまだ永遠の命を得る術を人類は持ち得ていません。
死の訪れは突如としてやって来るのか、じわりじわりと近づいて来るのか解らないけれど必ず訪れます。
「死」を考えたい。「死」を通して生きることを識りたい。』その欲求が「レクイエム」を選曲した理由でした。
その曲を、彼女を失った3日後に演奏することになるとは。
演奏に先だってお出で下さったお客様に私的なことだけれどそのような理由で演奏することを告げました。
「鎮魂曲ではあるけれど、私は泣きません。哀しいけれど打ち拉(ひし)がれての演奏にはしたくはありません!
彼女が果たせなかった、生を全うしたかった思いを伝えるために演奏します!」そう話をして演奏を終えました。

 演奏した団員たちの笑顔、そして凜(りん)とした立ち姿の何と美しかったことか!
終わりの拍手は〈皆、今生きている!〉ということを称え合うものだったと思っています。  

 



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