八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.160


【掲載:2019/12/19(木曜日)】

やいま千思万想(第160回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

人の生き方、それはそれぞれに祈りを持ち務めること

   12月15日に演奏会がありました。
1年のコンサートのなかでも華やぎの多い「クリスマス・コンサート」です。そのプログラムに掲載した「演奏にあたって」の原稿をここに転載します。

 『クリスマスの時期にそれに因んだ曲を演奏するのは難しい。
キリスト教国ではない我が国で、その意味について毎年考える私です。
イエス・キリストの誕生を祝う時期、日本の巷での喧騒を離れていつも「私にとっての〈クリスマスとは?〉」との問い掛けを続けます。
しかし、その答えはいつも明確です。その答えをもって私は臨みます。
〈人としての尊厳を願い、世界の平和を祈願し、思考の目線は弱者と呼ばれる人々の上にあって私だけでなく、この地球に活きる全てのモノに平安が訪れますように!〉
その思いで演奏する。これが私のスタンスです。
 「死」は現実にあります。人間にとって〈「死」とは何か?〉を避けて通る道はありません。
「死」と「生きる」は同次元の問題です。
「鎮魂曲」と訳されている「レクイエム」(死を悼み、死者の魂の安息を祈る)を演奏することは、私にとって、救い主とされるイエスの誕生を祝うことと同じ意味合いを持ちます。
「死」とは「生きる(生きた)」ことに繋がります。
亡くなった方々のそれぞれの生き方を想像し、人として生きる(生きた)ことの困難さに思いを馳せる。
それを想うことが今を生きる私の務めです。「どのように生きるのか!?」を問われ続けるのです。
「クリスマス〈Christmas〉」は生命の尊厳の始まり。
永遠に生命が尊ばれますように。今、この時に、心に平安が訪れていますように。
世界の人々に魂の安らぎがありますように。人間の未来が明るく何処(いずこ)にも輝きますように。
この奇跡である地球上に生命の栄えが続きますように。その証しを私たちが日々務められますように!そう祈っての演奏です。』

 文ですが、書くには随分と考え込みます。
文章は誤解を生み易いです。すべての思いを正確に伝えることは困難だとも知ります。
できる限り「曖昧な言葉」を使わない文章であるべき、そう心がけています。特に、宗教と政治には。
読者には狭い価値観だと思っていただくことなく、それらを超えた広い視野の中での世界観でもっての言葉選びと表現になれば、との思いです。
コンサートは盛会の内に、そして演奏は私のメーセージとして聴衆の方々に届いたと感じました。沢山の感想を伺ってのことです。
又一つ、それも今年の最後を飾る大きなコンサートが終わりました。
後残すは12月「マンスリー・コンサート」のみ。アッという間の1年です。
身体も順調に整ってきた感があります。が、「石垣島に行きたい」との思い、「正月に!」との計画は果たされそうにありません。
私の目と耳で石垣島を感じたい!石垣島の今、どのように私には見えるのか。〈自然〉の体感。伝統と新しさ。現実と未来。
それを肌で感じたいです。
石垣島へ、春先を目指します。  

 



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