八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.163


【掲載:2020/01/30(木曜日)】

やいま千思万想(第163回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

「校正」とは人生を切り開く道に通じる/「校正」とは〈人〉と〈成り〉に通じるもの

   ご存知だとは思うのですが「校正」とは文字の誤りなど、元原稿と比べ正すことですね。
それは誤字脱字や「てにをは」の修正などです。時には文章の表現にまで意見も加わったりします。
そういった過程を経て、出来上がってきた校正文を執筆者が再度読み返し、〔決定稿〕へと仕上げていきます。
幾度もその遣り取りを繰り返すことがあります。大著になればなるほどその回数は多くなりますね。
より読みやすく、理解しやすく、著者の思いが正しく読者に伝わるようにとの作業です。

 勿論、著者自身も原稿に対して校正を重ねます。が、本人だとなかなかミスが見つかりにくいです。
思い込んでいるものは、誤っている文であっても頭の中にある文章に沿って読みがち、そうなると誤字や脱字はよく見落としてしまいます。
ということで、「校正者」に頼んで校正版を作って貰うこととなります。
しかしながら依頼された「校正者」が文法的に正しく直すだけでは著者として納得、満足するとは限りません。これが難儀なんです。
一見、少々読みづらく思う文章であったとしてもそれがその著者の魅力なのかも知れませんし、世界観であるかもしれません。
言葉(文章)には規定されずに、文章の広がり、心の中に思い浮かべられた像、印象の奥行を感じ取って頂ければとの思いもあります。
「校正者」は著者の〈人〉と〈成り〉に通じている必要があることが大事かもしれません。

 楽譜の校正についても同じことがいえます。
ただ音の間違いや、楽譜としての形を整えるというだけでなく、作曲家の音楽観(世界観)に添って音の繋がりを考えて修正、訂正を行わなければならないのですね。
楽譜は〈見た目〉が大切です。「絵画」を鑑賞するように楽譜を先ず観る、これが醍醐味です。
そこから作曲者へと繋がる道が見えてきます。
楽譜でありながらこれも音符を〈人〉と〈成り〉として見つめているということですね。

 さて、ではこのコラム原稿はどうなっているのか。その過程を書きますね。
まずテーマを選びメモ書きを始めます。ものによればそのメモに資料を添えていきます。
その資料は書籍からであったり、インターネットに依ることもあります。
メモが出来上がれば、そのメモを見ながら一気に文章として書き始めます。
書きあげたものは何度も読み返します、その度に修正を施します。
そして「これで良し」としたならば私が頼んでいる「校正者」と妻とに送ります。
最初の読者は妻です。その感想が私にとって大切な関門。ここで「面白かった!」と来れば書き疲れが吹っ飛びます。
しばらくすると「校正者」から校正版がメールで送られてきます。この人、校正のプロではありませんが、私をよく知る団員、そして信頼を寄せる人です。
原稿は校正版を決定稿とすることもあれば、原文を採用する場合もあります。
この二重のチェックがこのコラム元原稿で行われています。
さて、今回もこのような過程を経ているのですが、如何なるものでしょうか?  

 



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