八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.175


【掲載:2020/07/23(木曜日)】

やいま千思万想(第175回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

命ある限り「泣き叫んでやる!」

 セミの鳴き声で目が覚めます。
季節は夏だが、いつもの夏ではない。蒸し暑さや日中の刺すような陽光のうんざりに加え、重苦しさが加わっています。
それはこの日本での規範が解らなくなっているからです。
理解ができない、どう考えても私には今見えている世界が判らない。
何を正しいと捉えて行動を取ればいいのか?人の動き、世の動きが見えてこない。少なくても体感をもって捉えることが出来ないでいます。

 最近、私もセミのように騒がしく喋りまくっているようです。
蝉は「オレは生きている。生きてるんだ!」とばかりにメスに向かってうるさく鳴きわめいているのですが、
私は私を取り巻く周りに「今の時代、私には沢山判らないこと、理解できないことだらけだ。
どうして皆も声を上げて、判らない事とか、理解に苦しむ事とかを多くの人と喋らないのか!」と叫び声を上げます。
自分の存在を確かめたい、私の思いはどれ程に皆と同じなのかを知りたい。そのために私は主張する。
熱がこもって体中にエネルギーが溢れます。聴いている方々にそう映るようです。

 蝉は成虫になった途端鳴き叫び(メスを求めて)、たった一週間か10日の命を全うします(一週間から二週間とも言われますが)。
その短さ故に激しく鳴き続けます。
私はもう少し長生きして、鳴き続けようと思っています。
「今の世の中判らない?」「どうした?どうした?どの様に生きて行けと言うのか?」「理不尽さに気付いたならばどうする?」と。

 前回、「フレーム」という言葉に触れました。
フレームとは「枠」「枠取り」の意味で用いました。一枚の写真や絵画を見たとしましょう。
そのどの部分を中心にして観るかによって全体像の印象が様々に異なります。部分を見て、それらを関連付け、全体像に結び付ける。
部分が全体を作り、全体は部分によって作られている、という当たり前の事なのですが、人というものは「部分」だけを観て判断するようです。
特に我が国、日本ではそれが多いように思います。
ですから全体像を知りたい私には「部分にこだわって全体が見えない」ことはとても不安に思ってしまうのでしょう。

 前書きが長くなりました。「新型コロナウィルス」の話です。
そのプロセス、現状を見れば「混迷」しているとしか映りません。
出口が見える全体像が示されてはいないのです。「部分を語っている」のは沢山あります。
しかしどの道を歩むべきかの確信がありません。「信頼」が揺らぎます。人類史上希なることが起こっています。
世界を恐怖で満たしている「新型コロナウィルス」。国としての構造が問われています。それこそ「部分・部分」が問われています。
そしてその結合の像こそ観なければならりません。
一人一人、全ての人々の(赤ちゃんからお年寄りまで、どのような境遇にもかかわらず)命を救わなければなりません。
生きることに「幸福」「希望」を感じる世界でなければなりません。
「鳴き叫んでやる!」と思っています。命ある限り!

 



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