八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.183


【掲載:2020/11/19(木曜日)】

やいま千思万想(第183回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

良い演奏家は良き聴衆でもある。それはどの分野でも言えるのでは?

 日本は新しい動きへと進んでいるようです。と書き始めたいところですが、どうも代わり映えがしない。
期待が持てるのか、落胆するのか、それぞれの思い方で違いはあるのでしょうが、私は後者の方です。
それは演奏活動をして感じる事ですから、偽らざる事実だと思っています。

 現在も「新型コロナウイルス」の影響が様々に立ちはだかり、行き着く先が見えず不安がずんずんと溜まっていくようです。
全てはそれぞれ自身に任され、結果には安心に繋がる〔保証〕がありません。
私の立場だとコンサートを開催することで「もし、ウイルス感染が発生したらどのように対処するか?」、が公的には明確なイメージとしての配慮、対策が示されてはいない状況です。
これは本当に拙(まず)いことです。

 ウイルス感染の状況は一層複雑化しています。
何処で感染したのかが判らなくなっています。そ
れだけウイルスが拡散され、場所や人が特定できないほどに蔓延しているということです。
もう、これは個人では負いきれない所まで来てしまっています。国全体が取り組むべき最重要問題です。
しかしこれらに関しては対処の姿勢は何度も述べられてはいますが、結果として、実感できる状況には未だなっていません。
「責任は自身でどうぞ」というのが現場での感覚です。
「もしや?」の時からの安心が見えない、これって実に不親切、との思いがのしかかってきます。
当事者、ここでは「一般国民」としましょう。皆、一生懸命に努力しています。
専門分野は異なっていても、良い成果が生まれますように、皆が喜びを得られますように、
幸せになれますようにとその目標に向かってそれぞれの立ち位置で努力し、働いている。一生懸命生きています。

 少し前によく言われ、現在もその解釈(順位)で対立も生まれている言葉、「自助・共助(互助)・公助」。
使われる分野で色々と捉え方の異なる厄介な言葉の並びです。
例えば、災害時での備えや対処を思えば
「自分の身は自分で守る」「自分たちの地域は協力しあって自分たちで守る」そして次に「公的機関による救助・援助」なのだと考えるのも当然でしょう。
しかし、思うのですね。
青臭い思いかもしれませんが、「自助」の前に、「共助」の前に、「公助」による事前の軽減策が施され、
できる限り災害を最小限に抑える備え、対処法が完備してあることを望むのも一概に間違っているとは言えないのではないか、と。
「公助」は全体協力の総称だと私は思っています。
「個人」や「地域」や「公」が別々に動くわけでなく、全てが協力し合う結果が「公助」として表れるのだ、とずっと私は捉えてきました。
皆の働きに依る「税金」がつぎ込まれるからです。 救う者は救われる者でもある。救われてこそ救う意味が解る。
表題に書いた「良い演奏家は良き聴衆でもある」は私の〈座右の銘〉です。

 



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