八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.205


【掲載:2022/1/05(水曜日)】

やいま千思万想(第205回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

「死」を思うことは「どう生きるか!」を問われること

  2021年も過ぎ去ろうとしています。
年末に向けて私は音楽家として走り続けました。
「コロナ禍」との闘い、社会の不条理への憤懣、人に襲いかかってくる災禍やそれに伴う哀情。
特に人死(ひとじ)に際しての「音楽」については深く強く考えざるを得ませんでした。

 恒例となった師走の演奏会、「大阪コレギウム・ムジクム」第124回大阪定期公演「クリスマス・コンサート〜希望の祈りはとこしえに〜」
のプログラムに掲載した【演奏にあたって】を転載します。

 『「人間は人生最期の時である〔死〕を想うことで、生きる意味、幸福という充足を知る」そう想う私です。
「死」を考えることで人間は生きる知恵を持つ。決して「死」は後ろ向きでなく幸福に向かう、まっとうで、真っ直ぐ進む道標(みちしるべ)。
「死」を想うことは「どう生きるか!」を問われること。私の人生の根っこにいつもあった言葉でした。
「生きる」こと、「生活を営む」ことには幸福なことより苦しみや悩みが多いかもしれません。
幸福を願えば願うほど不幸せと隣り合わせ。不幸せを知れば知るほど幸福が見えてくる。やっかいな人間の〔業(ごう)〕、〔生き様〕です。
  クリスマスとは我々日本人にとってどういった意味があるのか?
以前ほどの華やかさはなく、控え目になったような昨今ですが(「コロナ禍」の影響もあるでしょうか)、
日本がまだ勢いがあった最中には商戦の最前線で豪華に彩りを競っていました。
キリスト教国でないこの日本で。(そうであったからこそ、なのかもしれませんが)
キリスト教会で30年余りオルガニストを務めていた私にとって、「クリスマス」とは一般的な「正月前の年末行事」ではありませんでした。
音楽で忙しかったということだけでなく、人間が「産まれ(呼吸が始まり)—生き(時を刻み)—死を迎える(息を引き取る)」ことを思考し、ただただ祈るための期間でした。
クリスマスを祝う事と死を悼む(鎮魂)こととが一つとなる。
これは相反するように思われ、違和感を覚えられることかも知れません。
しかし、私にとっては切実に迫ってくる「一個の生命の尊さ」と「全生命への敬愛」が一つとなる思いなのです。
沢山の方がこの世を去られました。近くにいた人も、会ったことのない多くの人々も。その事情は様々です。
しかしながら、それらの魂は皆等しく大切で掛け替えのない尊い思いの結晶です。
宗教を超えての「生命の賛歌」でありたい!この世を去られた〈重荷を下ろされた魂〉への祝福でありたい!そう強く願います。
今日演奏する、J.S.バッハの「生命感溢れる神への賛歌」、
フォーレの「至福に満ち、不安無い美しい死後の世界」、
山中千佳子さんの「人生の共感に溢れる安息への誘(いざな)い」。
お聴き頂く皆様にとりましても、「今を生きる喜び」と「会えなくなった人への祝歌」となりますよう⋯。
心込めて振りたいと思います。』

 メッセージは届けられました。沢山の聴衆の目に涙。生きる証しの熱い涙だったと思います。

 



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